松尾芭蕉 奥の細道 十七 佐藤庄司が旧蹟 | まいどーおおきに 河内の樹々の独り言
松尾芭蕉 奥の細道 十七 佐藤庄司が旧蹟

(一)月の輪の渡しを超えて、瀬の上といふ宿に出づ。(二)佐藤庄司が旧蹟は、左の山際一里半ばかりにあり。(三)飯坂の里、鯖野と聞きて、尋ね〱行くに、(四)まるやまといふに尋ねあたる。これ庄司が旧館なり。麓に(五)大手の跡など人の数ふるに任せて涙を落とし、(六)またかたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも(七)二人の嫁がしるしまづ哀れなり。(八)女なれどもかひゞしき名の世に聞こえつるものかなと、袂[たもと]を濡らしぬ。(九)堕[だるゐ]涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、こゝに義経の太刀[たち]、弁慶が笈[おひ]をとゞめて什物[じふもつ]とす。

 笈も太刀も五月[さつき]にかざれば紙のぼり

五月朔日の事なり。


注釈

(一)山口村から瀬の上への途中、阿武隈川の渡し場。かたはらに月の輪山がある。
 
(二)佐藤元治。藤原秀衛の臣で義経の忠臣佐藤継信・忠信の父

(三)今の飯坂温泉。鯖野はその西南で、佐場野と書く

(四)佐場野の北にある丘

(五)城の表門

(六)瑠璃光山医王寺のこと。佐藤一家の菩提寺

(七)継信兄弟の嫁の墓標のこと。ただし嫁の墓はこの寺にはない

(八)継信兄弟戦死の後、二人の嫁が甲冑をつけて夫の凱旋に擬して、母を慰めたと伝え、その木像が甲冑堂に祭ってある

(九)晋の襄陽太守羊祜の死後人民その徳を慕って祜がよく遊んだ硯山に碑を立てて祭った。見る者は涙を堕さねばなかったので、杜頂はこれを堕涙の碑と名づけたという