最近のこのブログで、音楽を盤に固定させる事自体が特殊なんことで、これからはそうはいかない、などと書いていながら、僕は「レコード鑑賞」に出かけた。

 なぜかというと無性に懐かしかったから。

 それは「いい音爆音アワー」というイベントで、新富町にあるオーディオショウルームの地下にあるリスニング室で、200万円相当というオーディオセットで懐かしいLPを爆音で(実際は爆音ではなく真っ当な大音量だ)聴く集いなのだ。

 知り合いのフェイスブックでそのイベントを知った。
 今回爆音で聴くLPはスーパートランプ「ブレックファスト・イン・アメリカ」とE.L.Oの「ディスカバリー」という1979年の作品。1979年は僕は中2から中3という時代、音楽をとにかく無防備にすごい勢いで体内に取り込んでいた時期だ。その中でもこの2作は当時大好きだった。

 あらためて聴いていくと、FMラジオでその曲たちが初めて流れてきたときの自分の心持ちや、そのときの自分の部屋の様子、ラジカセの機種,外見までありありとフラッシュバックしてきた。40年近く前のことなのに、、。


 当時僕は音楽を聴くたびに。具体的なことじゃなくすごく漠然としたものを「ぽわ〜ん」と夢想する習慣があった。そんなこともフラッシュバックしてきた。
 自分の住んでいる小さな田舎町の外には必ず素晴らしい世界があって(オズの魔法使いのドロシーみたい、だ)、その世界のイメージを喚起したのが音楽だった。当時の僕にとってレコードを聴くことは、夢を見ること、と同義だった。おおげさじゃなくて。

 その後、東京に住み、外国のいろんな都市にも行ってみたけど、夢想していたような素晴らしい世界なんてどこにもないことを思い知らされることになったけれど。


 僕は昔からライブより録音物を好んだ。「フェス」なんて、30年前に斑尾でジャズを聴いた以外一度も行っていない。
 なぜだろう?とあらためて考えてみた。

 ライヴは「その場限りの」「リアルな体験」だ。それに比べて、僕にとってレコードは「半永久的な夢の再生装置」のようなものだ。ライブ会場では、ぽわ〜ん、と夢想などできないし。

 僕は空想癖を抱えたまま大きくなってしまったおっさんなのかもしれない。

 今の時代は録音物よりライブに人気があって、それは、もはや「録音物」に夢を喚起させるような魅力がないのか、世の中自体に人々に”ぽわ〜ん”とした夢を見させるような余地が残っていないのか。きっと両方なのだろう。

 夢を見るならもっと具体的でリアルなものじゃなけりゃいけないし、なんだったら優秀な頭脳を持つプログラマーたちが構築した、バーチャルな夢の世界だって用意されている。
ぽわ~ん、なんてしてられないのだ。

 でも、聴く側に、ぽわ〜ん(しつこい?)、と夢想できる余地がなければ、レコードを聴く醍醐味の半分ぐらいは無くなってしまう、そんな気がする。

 スーパートランプもE.L.Oの作品も、音楽的にメロディー、ハーモニー、サウンドのウェイトが高い。英語がダイレクトに聴こえてこないというのも大きいけれど。

 メロディー、サウンド、アレンジが主役の音楽は、想像を駆り立てる力が強くなる、ファンタジーに寄っていく。反対にビートと言葉に重きを置く音楽は、リアルに伝わってくる、そんなことをあらためて感じた。

 ぽわ~んとした夢想する余地のない現在の世界では、人々はライヴ体験に向かい、ビートと言葉が中心の音楽に傾いて行くのは当然のことなのだろう、きっと。

 
 さて、ではこの先の音楽はどうなるのだろう?全然見当もつかないが、リズム、ビートが主役というのは変わらない気がする。でも歌詞はどうなんだろう?

 歌詞をメロディーにハメる、もしくは歌詞にメロディーをつける、というのが僕たちがずっと長い間慣れ親しんだ形だったけど、よりビートと親和性のある歌詞、というのは大事になりそうだ。単にすべてがラップっぽくなる、ということではなくて。これは僕の勘でしかないけど。

 (そういう意味では宇多田ヒカルの「道」などは、ビートに言葉を完全に同期させながら、言葉自体もしっかり聴こえてくる、という素晴らしい達成だと思うんだけど、これは彼女だからできたという気もする、ホイホイ真似できるものじゃない。)


 「レコード鑑賞」という行為は過去の遺物かもしれないが、音楽の楽しみ方のひとつの「極み」なのかもしれない。とても特殊だけれど。

 多くの人が何度も何度も鑑賞することを前提にして、人知を結集してクオリティーを高めていったものだ。その中ですぐれた作品として残っているものの中には、きっと何らかの魔法が閉じ込められている。

 時代は容赦なく進む。スマホで音楽を聴くことすらいずれ過去のものになるのだろう。
 最近レコードが再評価されている、と一部で言われているが、もちろんまた主役の座に戻るというわけではない。でも、楽しみ方の選択肢のひとつとして、残ってほしいと思う。
 
 
  
 




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 昨晩(10月17日)は中目黒の楽屋へ。
20年前に発売された比屋定篤子のデビューアルバム「のすたるじあ」を全曲演奏するという企画ライヴがあった。

 でも、アルバム全曲ライヴって、普通は世間的に「名盤」って言われるものでやっていたような、などと思いつつ。


 まあ、ともかく、「のすたるじあ」の話を。
 当時、20年前、僕はこのアルバムの宣伝担当だった。。
 ソニーミュージックだったけど、少人数でしかも邦楽の仕事をしたことがない人間ばかりが寄せ集められたチームだったので、何か全部手さぐりしながらやっていた、というのを覚えている。
 
 当時は、一発当ててやろう!という感じじゃなく、曲よし、歌よし、アレンジよし、録音よし、という制作をし、ディーラーや媒体の方で気にいってくれる方を、ひたすら探し求めるという、ある意味おそろしまでに真っ当で、泥臭い、やり方をした。

 で、結果「のすたるじあ」はヒットしなかった。ただ、熱心なファンの方はいた。その後アルバムを2枚制作し(うち「ルア・ラランジャ」というアルバムは僕がディレクターをやった)たが、売り上げは伸びないまま、彼女との契約も終了してしまった。

 その後も彼女はマイペースに活動を続けて、インディーズのハピネスレコードからコンスタントにアルバムをリリースしている。中でもシティポップ・ユニット「流線型」とのアルバムや、「メビウス」「まわれまわれ」といった彼女の曲のクラブ・ユースなどもあって、彼女の活動ははスポットライトはあたらないまでも、不思議に”粘り強く”サポートされてきた。


 そんな中昨年突然彼女のベスト盤と「のすたるじあ」を含むカタログ(アルバム3枚)のりイシューが、ソニーからリリースされ、配信、ストリーミングでも全タイトル聴けるようになった。
 

 ちなみにソニーのりイシューの担当者の方も、ハピネスレコードの方も、リアルタイムで彼女の音楽をすごく気にいっていた方だ。
 作品を好きになった人がアクションを起こして、アーティストの音楽活動をつないでいってくれてる、当たり前のことみたいだが、今の僕にはすごいことのように思えた。

 お客さんもすごい温かい雰囲気で、言い方が少し変だがお客さんの「憩いの場」としても成りたっている。

 真っ当に、泥臭く、人間的な交流のある「音楽の伝わり方」は、20年前よりも、かえって「今っぽい」方法でもあるような気もした。


 それから、「のすたるじあ」は「名盤」でも「隠れた名盤」でもない分、消費されてもいないので、久しぶりに聴くと、「懐かしい」じゃなくて、客観的に「あれ、これすごいいい曲じゃん」と新鮮に聴こえる楽しさがあった。
  


 これは「隠れた名曲」だと、僕は20年前からずっと思っています。「のすたるじあ」からの1曲



 

 
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「Jポップとは何か」の著者による近作だ。

実は今から4年以上前、2013年6月に僕はこのブログで

「あれ、ひょっとするとJ-POPyという呼び名は賞味期限がとっくに切れているのかもしれない」

 というタイトルの記事を書いていて、その際「Jポップとは何か」を読み直したのえお覚えている。
 4年前に「賞味期限が切れてるよ」と言ったら、最近になっていよいよ「死んだ」と返事が返ってきた、みたいな不思議な感じだ。

 作者によるとJPOPとはCDを媒体とした音楽、とカテゴライズできるものなので、CDがすさまじく売れなくなった今は「死んだ」と言っても差し支えない状況になっている、ということだ。

 握手会やイベントに呼び込むグッズ、付録として、またライヴやイベントに行った証、お土産としてのみCDは機能していて、ただ流行している音楽を聴くのは、もっぱら無料のYouTube、お金を払ってもストリーミング配信、というのが今のスタンダードになっているのは間違いのない現実だ。

 しかし、この本は、いかにJポップが死んだか、という話ではなく、今の音楽事情を非常に客観的にとらえたものとして価値がある。

 例えば、カラオケの利用者は減っているが、高齢者向けビジネスとして伸びているという話は初耳で、なるほど、と思った。

 あと個人的に興味深かったのは、元ソニー社員ででグーグル日本法人の元社長だった、辻野晃一郎氏へのインタビューだ。

 彼によると
”日本人は「過去の延長線上で未来を考える」傾向が強い”なので
”「古い時代の価値観が未来にもそのまま続く」という前提で発想し行動する”

 でも今のような時代は
”未来から発想する視点が重要”(例、アーロン・マスクは2050年の世界を基準にした視点で開発を進めている、それに対して東京スカイ・ツリーは20世紀の技術である放送波を受信する電波塔で、果たしてそれが2050年の日本に果たして必要か?という視点がない)

 ウォークマンがiPodに負けたのは
 ソニーがそれまでの延長線上の「持続的イノベーション」だったのに対して
アップルは、それまでやってきたことを破壊する「破壊的イノベーション」だったから、だと論じている。
 
 確かに今のネットを使った音楽のありかたの変化は、レコードからCDへの移行が今となっては全然大した変化だとは思えなくなってしまうレベルのものだ。
 
 ただ、本来音楽は「固定」できないものなのに、盤に「固定」させて流通されていた時代の方が特殊で、産業従事者としても「楽」だったわけだが、これからはそうはいかないのだろう。
 ある意味、もう一度自由にランダムに解き放たれた「音楽」を、新しいテクノロジーがどう関係を持っていくのかを追いかけていく、しばらくそんな状況が続くのだろう。
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