昨日の党首会談。

大写しになる岸田首相の顔。顔は内面の鏡だとよく言われるが、改めて岸田首相の”様々な表情”をじっと見る。人の表情は内面を表すといわれるが、岸田首相の場合は口元に現れる。人は誠心誠意に言葉を選ぶ時はおのずと目元に現れるが、岸田首相の場合は口元だけが動く。口先だけの人間の特徴なのかもしれない。

 

今日、立憲民主党は午後から内閣不信任案を提出するという。

政治の善悪を判断するのはその政党の価値観でありその価値観が試される時でもある。背骨をしゃんとして政党としての判断を実行する時である。

 ここに、2022年6月9日のブログ、「当たり前がたたかれる国会」を再発信したいと思う。

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「当たり前が叩かれる国会」 2022年6月9日付

 

9日の細田議長不信任案、内閣不信任決議案が共に否決された。

世の中の一般常識が国会では通用しないらしい。参院選をひかえ党利党略から牙を剥く野党議員も同様である。

 

朝日新聞の夕刊素粒子。「国会最終盤の定番『内閣不信任決議案』が改めて示す。野党がバラバラに参院選へ。」の記事。続いてJIJI.COM。「『求心力ゼロ』『茶番』不信任案で立民批判続出 野党」・・・参院選を前にして与野党共々、立憲批判の嵐である。

興味深いのは、維新、国民民主、れいわの各党の立憲批判は各党の姿と重なる。そして追随するメディアは労せずして記事の仕上げを待つのみとなる。

 

典型的なものとして、素粒子の記事に見られる定番の野党批判。「国会最終盤の定番」といった当てこすりと「野党のバラバラ感」に至る記事の流れは、何度も目にした内容である。とことん野党の存在を見限っているにせよ、伝える側の最低限度の公平さがあるとは思えない。

 何故、圧倒的多数で必ず否決されるような決議案を野党・立憲は「国会最終盤の定番」とまで言われて繰り返すのか。その原因が立憲だけの責任として問うのであれば、記事としての公正さが疑われる。

毎度繰り返される野党批判の定番に、与党は勿論、メディア側に「馴れ」と「慣れ」が生じてはいないだろうか?

 

国会の質疑を聴いている限り、岸田総理もお疲れなのか野党質問に対する答えと噛みあっていないことが多い。岸田総理としては答えているつもりだとしても、総理自身の考え方を披露するだけでは野党の納得は得られない。政府案が磐石だと考えているのであれば野党提案の脆弱性を指摘し、より具体的な政策としての安心感を国民に示す必要がある。具体性のある良質な議論は与野党が対抗することによってそれぞれの弱点が見えて来る。合わせて2重3重のセーフガードを示すことによって議論がより現実に近づき深みを増す。

 

岸田総理の聞く力とは単なる集音器ではないはずだ。

聞く力は結論(実現)に至る重要な過程であって、この質疑の過程を活かせず具体性を欠いた答弁であればこの議論は失敗である。国の予算案が希望的観測によるものであっては非常に心もとない。コロナに見られた具体性の無い行き当たりばったりの対応と同様にこの物価対策もどこか行き当たりばったりに見える。

 

コロナで多くの国民は大なり小なりダメージを受けている。生活面で逼迫している家庭はますます追い込まれる。物価の高騰は初期の段階では何とかしのげているように見えても様々な物価高騰が複合的に押し寄せる中盤、後半に至っては個々のやりくりの限界を超える。「生活を安定させること」は政治の役割として喫緊であるはずだ。二重三重の手立て、正確な予測が必要になってくる。このところ、またまた国交省の統計不正が問題になっている。この国はデーターすら管理できない国になっているのだろうか?ますます希望的観測に依存する政府の姿がみえてくる。さらに政治にイソギンチャクの様に寄生しているメディアの存在は、国民共々目を閉じたまま沈没していくのではないかと不安に駆られる。

 

そして、細田議長不信任案。

いずれも立憲、共産以外は退場し判断を見送った。国民民主・玉木氏によると週刊誌報道に基づく情報も含まれているので現時点では不信任案にかかる判断材料となりえない、という見解は(一見まともそうに見える)が、であるならば細田氏自らの説明責任を強く求めていくべきであったはずだ。高支持率の岸田政権を前に得策ではないと考えたとしか考えられない。現在速報として伝えられている自民・吉川議員と18歳女性の飲酒を巡る一連の問題にしても、岸田総理が「本人の説明が大事」とコメントしている。これも週刊誌報道から得た情報である。世耕参院幹事長曰く。「出処進退含めて自身で判断されるべきだ」などと離党を促す声が出ていた(6月10日、読売新聞ニュース)。

いずれにしても細田議長という極めて影響力のある地位と吉川衆院議員との対応の違いはどこから来るのか?

今回の週刊誌報道による国会議員の進退については、「国会議員としての説明責任」がキイワードであって、なぜ細田氏は説明責任を免れたのかが大きな疑問として残る。

 

いくら世の中がすさんでも、国民の間の倫理観はそう簡単に色あせ忘れるものではないと信じる・・・善悪に対する普通の倫理観を国会に取り戻してほしい。立憲民主党に期待する。