6月16日、FNNプライムオンライン配信。

「規正法改正案『まだまだ不十分』自民・中谷氏 改憲条文化に対する参院立憲の主張には『お門違い』」・・・報道。

 まず、政治資金改正法案については、まだ不十分だと認めつつも今国会で成立させた後も議論が必用だとする中谷氏。しかも、今後はしっかりとした再発防止ときちんとした透明性が図られるものにしていかなければならない…とも述べている。

この「再発防止と透明性の確保」はこの法案の胆に当たり、いかに実効性があるかでこの法案の賛否は決まる。

 法案成立後の議論に何の価値があるのだろうか?国民は決して騙されない。

 

続いて、2点目。

憲法審査会(衆院)の筆頭幹事としての中谷氏の発言が記事の後半で取り上げられている。

「憲法改正の条文化作業を進めた場合、立憲の参院側が法案審議に応じられないとの姿勢を示したことについて、『真摯な改憲議論を、邪魔した』と批判し『お門違いだ』」と断じた・・・との報道。

 

「お門違い」ということであれば、立憲と同じような意見を持つ国民もお門違いなのだろうか?

国民に問う議論の場(国会)もなくただ憲法審査会での議論結果をありがたく受け入れろ、ということなのか。個々の国会議員(料理人の素性)もよく分からず出来上がった(条文化された?)料理を皿にのせ食べるか食べないか、と迫られるというのもある意味暴力的行為ではないかと思う。

シンプルに考えて、現在の自民党に改憲にかかる説得力、政治家としての信頼が残されているのだろうか?

 

先日、6月13日の憲法審査会で、公明党の國繁徹氏の発言として「社会における重要な憲法テーマを軽視してはならない」、また「社会の中で起きている問題に憲法の規定を通して光を当てることも必要」という主張には同感である。

加えて、

4月18日の憲法審査会で、自民党・石破氏のことばが思い出される。

まず石破氏が指摘したのは、憲法53条、臨時国会召集についてで国会議員の権利が認められなかった事例として現実の世界と憲法との齟齬について言及されていた。

 また、憲法審査会における国会議員の立場として、「自分の考えを実現するためにここにいるのではなく、国民の気持ちを代弁する立場としてここにいる」あるいは、「我々は個人としてここにいるのではなく、国民の権利の体現者としてここにいる」といった言葉はまっすぐに憲法を見つめた言葉として心に響く。

 

これまで改憲に努力をされた中谷氏のご苦労、そしてそのご苦労に見合う成果として改憲の条文化につなげられない苛立ちは理解しても、その苛立ちは”お門違い”という感がぬぐい切れない。