国会議員は民主主義のルールのもとに選ばれ彼らの身分も保証されている。そのうえで、国会運営も民主主義のルールの下で運営される。国会議員にとって民主主義に対する深い理解がなければ人権をかけた論争など成り立つはずがない。

 

今月23日の「ABEMA的ニュースショー」での維新・馬場代表の発言。

受けを狙って過激さに歯止めが利かなくなってしまった維新・馬場代表。日頃から揶揄と中傷に満ち満ちていた。

 「共産党はなくなったらいい政党」、立憲民主については「立憲民主党がいても日本はよくならない」。まるで、嫌いな子に向かって「いなくなればいい」と悪態をついている子供のようなもので60に手が届くような58歳の、しかも政党の代表を務めているような人間の言葉の幼稚さにたじろいでしまう。

気に入らない党を全否定することで、背後の支持者、国民の存在も否定することになることになぜ思いが至らなかったのだろうか?それでいて矛盾するのは、維新は国民のために戦う政党だという。維新が言う国民とはどのような国民を指すのだろうか?!

人種差別はよその遠い国の出来事のように感じるが条件さえ満たせば点から面となって力を持つ。共産党に対する暴力的発言が同じ価値観を持つ群れへの吸引力につながり、政党が国民を選ぶ。独裁の始まりである。

 

こんな言葉を使うことに抵抗はあるが、今回の維新発言も含め近頃の政治家、どんどんアホになってくる。普通、批判するからには、最低限正確な知識を得ようとするのが大人、国会議員であればなおさらだとおもわれるが、中途半端な知識で聞きかじりの言葉「暴力革命」でハヤシ立てる行動の軽さ。これもネット民の弱さを十分に知った上での支持率獲得行為に見える。

 

 

26日の立憲・岡田幹事長の会見(JCASTニュース配信)では立憲に対する発言の撤回求め、維新の馬場氏について、「公党のトップとして度が過ぎている」あるいは、「我々は大人なので~」にすべて凝縮されている。

 また、立憲・泉代表も馬場氏の発言を受けて、「危険な党代表をトップに据えている。また、そこに維新の中から声が上がってこないのが大変不思議。やはり怖いなと思います」と述べている。(28日、よろず~配信)

公明党からも苦言を受けているが、おそらく与野党に限らず、今回の馬場発言を適正な発言と認めるような国会議員は皆無ではないかと思う。

それでも馬場代表は健在で、後から発言の真意などとメディアに登場する。目的は一つ。何がなんでも注目を浴び続けることにある。いつまで彼の手法が効果的なのかは分からないが、今回の発言は馬場氏の実像を知らしめたことによって、よくよく考える選挙行動につながればいいと考える。