人をこき下ろす時、自身の顔を鏡に映してみたことがおありだろうか?
おそらくぞっとするはずだ。真に状況を憂い、建設的な批判する時は少なからず眼に憂いがあるが、批判自体に喜びを感じある種の快感を伴った批判は、鏡に映る自身の顔はてらてらと皮脂が浮き出ていて内面のゆがみを映し出す。
維新の馬場氏の発言といえば、これまでほとんどまともな議論を聞いたことがない(今まで政治番組、国会を見続けている中で)。ほとんどが立憲のあら捜しである。
政治上の批判においてもゴシップもどきの話を滑り込ませ不信を植え付けるやり方はこれまで何度となく目にして来た。反自民とまでいかなくともなんとなく現政権に不満を抱えている層にとって、たびたび出てくる維新流批判、立憲をサンドバックにして漠然とした政権への欲求不満を解消するやり方は、ある種、快感を伴いいつの間にかそのドラマに取り込まれ次の刺激的な言葉をもとめる愛好者として定着する。
立憲としては、きっぱりと否定すべきことは否定し維新流物語に飲み込まれてはもとも子もない。あくまでも立憲の品質は品質として維持することが前提となる。
6月7日の産経新聞・・・「維新・馬場代表、立民を『たたき潰す』遅延工作と批判」報道。
見出しにある通り、7日の党会合での馬場氏発言・・・「立憲民主党をまず、たたき潰す。今日の(衆院憲法審査会幹事懇談会での)議論を聴いていても、まったく国会議員としての責務が分かっていない。国会でとにかく遅延工作をする先祖帰り起こしている。本当に国家国民のために、この方々は必要なのか」と述べたという。
つまり自分流の議論に拘泥しているのは馬場氏であって、別の意見を持つ党に対しては「国家国民のために必要だとも思えないような方々は必要なのか」と訴える。さらに「いろいろ理屈をおっしゃっているが、要は、審査会を妨害したいと。またさぼり癖が出てきた」と言い、おなじみの見たいものしか見ない論法で非難する。
まともな議論の作法が分かっているのだろうか。維新そして(国民民主、有志の会)での合意事項に異論を持つ党を念頭に「国家国民のために必要ない」と言い切る暴力性に気づいているのだろうか?
この馬場氏の言葉は、一貫して憲法審査会の趣旨にも反する。憲法審査会の原点は、党利党略が絡むような議論ではなくあくまでも個人レベルの議論参加を求めているきわめて自由な言論の場であると理解している。
さらに、この暴力性はエスカレートし、記事の中で馬場氏の発言として「立憲民主党をまず、叩き潰す」という言葉についての適切性である。