かなり長~いブログになるが、2019年5月17日付のブログ「政治家の言う『現実的』なるもの」を再発信したいと思う。

 このブログは2015年(9年前のブログ)も含まれており、日本の政治がほとんど変わっていないことに気づかされる。自民党はもちろん、あの維新も全く今のまま変わらず彼らの意識に変化はない。つまり成長していない。

では他の野党は?、、、残念なことに、変遷を続け今もってその足元がおぼつかない現状にある。

民主主義という点でもまだまだ夜明け前という感が強い。むしろその闇が濃くなりつつある、というのが実感だ。

 

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「政治家の言う『現実的』なるもの」 2019年5月17日のブログより。

維新の丸山穂高衆院議員の発言。正直に言ってあまり驚かなかった。この手の発言はネット上でしばしば目にする事だからかもしれない。

しかし、衆院議員、そして北方領土へのビザなし交流の訪問団の「顧問」としての発言では弁解の余地なく、そもそも北方領土問題においてさえ理解していなかったと思うほかない。衆院議員の立候補資格は25歳以上とあるが、残念ながら精神年齢までは推し量ることはできない。

 

ネットに限らず、最近では相当な歳を重ねた国会議員でさえ好戦的ともとれる発言が目立つようになってきた。韓国のレーダー照射対応に「国交断絶さえ辞さない」、などと息巻くのもこの種の人間であるように思う。怒りは時に予想外の結末をもたらすことは歴史が物語っている。

 「やられたらやり返せ」、あるいは少し文学的にいえば「座して死を待つことはない」など相手によってそれぞれであっても、要は武器をちらつかせるか、武器を持って反撃しろと言う事ではないかと思う。特に憲法9条においては、この勇ましくも率直な?人々は護憲派、非護憲派に色分けすることを好み憲法の議論をますます分かりにくくさせていることに気づいていない。護憲派と見れば「あいつらの頭はお花畑だ」と称し感情的に否定する。戦争を憎む上においては彼ら以上に身に染みている人に対し現実を分かっていないと軽蔑する。防衛の問題においてはいつでもこの「現実的」と言う常套句が使われるが、現実的と言う割には自らが現実に対峙するわけではなく、つまるところ核を持っている米国に全て依存することがいわゆる現実的だとされる。

 

維新の丸山氏もネット空間で醸造され、戦争自体をゲームのようにバーチャルなものとして捉えているのではないか?国後島の宿泊施設での懇談の場で、90歳に近い年齢の元町民の団長に対し、いきなり「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか反対ですか」などと言う言葉をぶつけることの尊大かつ無礼な態度は人としての振る舞いにおいても既に終わっている。反省して謝罪で済ますような事ではない。

 

いま、日本の様子がどんどん変わってきているように思う。良い方向に変わっているならまだしも、政権の嘘にまみれ、政策さえバーチャル化している。どれが本当の事なのかを見極める努力することさえ虚しく思えて来る。

 今、改めて私たちの依るべき価値は何なのかと思わずにいられない。4年前、2015年5月17日に「ノーサイドでなくなった日本」と言う題でブログを書いた。再発信したいと思う。

 

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「ノーサイドでなくなった日本」 2015年5月17日のブログより

今年、2月1日、後藤健二さんが「イスラム国」ISに殺された。湯川遥菜さんはそれ以前に。

この日、はからずもISによって中東での日本のスタンスがもはやノーサイドではないことを思い知らされた。
ISばかりでなく、利用できるものであれば理屈をつけて利用しつくすのがテロの本質としてとらえても、何故日本人が?という衝撃のほうが強かった。

安倍首相が国会で、「テロの気持ちを忖度するつもりはない」と声を荒げ、「私はテロと毅然と対峙するのだ」と繰り返すたびに、中東における入り組んだ宗教的背景、加えて政治的貧困、教育、それぞれの地域が抱える様々な怒りや悲しみ、憎しみがマグマのように吹き出ている状況を米国と同様に政府がとらえきれていないと感じた。
とりわけ米国の中東政策の失敗はテロにとって格好の口実を与えてしまったと思う。
そして、日本は?といえばイラク派遣への検証もせず目を閉じたまま米国に追随していく。
今までの、日本独自の外交、「ノーサイド」を手放して。


先日の安倍首相の米国両院合同会議での演説は、これまでのノーサイドの日本から明確に米国側へと両足を踏みかえてしまったと感じる。
危うくとも、なんとか片足を日本に残し、一方の足は米国に置いて憲法9条を盾にバランスを取っていたものが体ごと米国サイドに乗り換えてしまったことで彼我との距離は開き、やがて自らの立ち位置さえも見失なってしまうのではないかと危惧する。
一内閣の解釈のみで国の根幹である憲法が権力に対して何の拘束力も及ばないことを実証してしまうことになれば、今後国はよりどころを失い状況に翻弄されていくことが想定される。

立憲主義から安保法制を語ると、「神学論争はやめにして現実的な問題を語るべきだ」と維新をはじめ次世代の党からも聞こえてくるが、世界情勢が不安定になればなるほど基本的な合意に基づいた国の倫理観が力を発揮する。それは航海における羅針盤のようなものだと思う。基本とする憲法の理念をうやむやにして現実を語ることはできないはずだ。
安保法制とは、国内ばかりでなく海外に向けて国の形をアナウンスすることであり、その形が時々の世界情勢で大きく変わるとすれば世界の中で安定した評価にはつながらない。

このたびの安倍首相の米国両院合同会議の演説が国内論議を縛ってしまうのではないかという危惧は、すでに17日のテレビ、報道2001でのコメンテーターの言葉に表れている。
「議論を尽くしたら安保法制は強行採決もやむをえないのではないか」というコメントであるが、この議論をつくしたらというのは自民党側の弁であって国民から見えないところでの身内同士の議論を議論の総時間数の中に入れられても納得はいかない。国民の6割以上が議論が足りないと感じている世論調査を前にして、このような言動は国民を舐めているのか、この番組の性格として、相当の太鼓持ちと言うしかなくいずれにしても報道人としての名に値しない。

今後、
この法案が可決されれば、安保法制賛成派は自らの政治的判断と外交努力に神経をすり減らすこともなく大きな安心、抑止力が買えると期待しているのだろうか?
この対価は日本が米国に期待される役回りを演じ続けることが条件になることは言うまでもない。
米国の肩代わりとなれば人口減少などと言っていられない。経済はいつも好調で防衛費用を担保できる経済力と、いつでもどこでも自衛隊のみならず米国が使いやすいように領土領空も差し出す用意もしておかなければならない。


国民の中国に対する脅威が払しょくされ、そして安倍首相の掲げる実態が全く分からない積極的平和主義のために自衛隊は地球の裏側まで出かけ米国の敵はわが敵と認識し存立危機に瀕していることを理由に武力で敵を撲滅し晴れて平和が訪れるのだろうか?

間違いなく言えるのは、米国と日本の軍事費以上に中国は経済力を背景にこれまで以上に必死になって軍事費を増やし、加えて南シナ海の覇権的行動は加速することが予想される。内向きな獅子はますます身を固くし自国の利益のために手段を選ばない。
軍拡対軍拡。
本物のチキンレースが始まり緊張のレベルは上がり安心などしていられないと考えるほうが自然だと思う。

モグラたたきでテロをつぶすことなどできないと同様に国の安全保障は武力だけで安心安全ではない。
抑止力を武力に依存することが最大の防衛とするなら過去の米国の戦争をなんと位置づけるのだろうか?まず、いかなる国においても武力衝突を呼び起こさない必死な努力が求められるのではなかろうか?
「必死な努力」と言われるものをこれまで日本はしてきたのだろうか?紛争なり武力衝突に至るというのは危機管理の敗退である。
今、議論されている安保法制はあくまでも対戦争、紛争、テロに照準を当ていかに自衛隊を動かすかという対処療法にすべてのエネルギーが割かれているといっていいと思う。

武力使用に期待をしそれが抑止力だとする悪しき思考方法から抜け出すためにも武力の限界をしっかりと見極めることが必要である。
先の大戦も、米国の戦争もちょっとしたことが引き金になり引くに引けない状況が加速する中で戦争の拡大につながったのがほとんどのように見える。そして、政治家による理屈にもならない理屈、戦争の正当化が始まるのが常である。

「ノーサイド」というシンプルな政治姿勢。
今にして思えば中東における、この絶妙な関係性は一人一人の日本人の功績が実った結果でありこの足跡を無駄にしてはならない。
困っている人々のもとへ駆けつけ信用してもらえたのは、政治的に無色であったからに他ならない。
安倍首相の地球儀を俯瞰する外交でそれぞれの国に何を約束してきたのだろうか?
そして、いま
どっぷりと米国にはまることによって何がかわるのだろうか?プラスかマイナスか?

失ったものが大きすぎる、と感じる。

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2019年5月18日。

世界はもはやノーサイドと言ってはいられない状況。自国を守るのが精いっぱいである。トランプ攻勢に疲弊し、安倍総理がよく言う「法の支配」ばかりでなく「経済のルール」が捻じ曲げられる時代。

その中で、日本は何処に向かっているのだろうか?

国後島での元町民の団長の言葉が心にしみる・・・「戦争するべきではない」、このことに尽きる。

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