人の弱みに付け込むような人間が溢れている。

ここ数十年、人間の質が大きく様変わりしているように見える。豊かになるはずの文明が人の想像力を貧弱にし、時にどろどろした得体のしれない悪意で覆い尽くす。

 

もっとシンプルだった母の世代。日本人のイメージと言えば律義で正直で働き者という時代。周りはみんな貧乏だったが少なくともまだ人としての品位が保たれていたように思う。

 記憶の中で悪いものが濾過され良いものだけが残っているのかもしれないが。。。

 

小西発言が恰好のターゲットになり悪意の連鎖が続く。

謝罪する本人の謝り方が気にくわないと、メディアも加担し罵倒が続く。罵倒するだけでは足りず国会(処刑場)に引きずり出せと叫ぶ衆愚の群れ。古い中世の映画のシーンが浮かぶ。

いつの間にか彼らは良識を重んじ正義を下す人間として描かれる。

しかし、眼を凝らしてみると

彼等は決して良識を重んじる正義の人でもない。公の悪に対しては口をつぐみ挑戦する気などもともとない。損になることは見ない、知らないことを旨として、むしろ公の権力にへつらって生きている。

 彼らの楽しみと言えば、挑戦に失敗した人間をつるし上げることに尽きる。

 

小西氏の発言と子供じみたふるまいは、氏の未熟さにその原因がある。

小西発言直後、31日の記者会見で立憲・泉代表が小西氏の発言について謝罪をし、小西氏を参院憲法審査会の野党筆頭幹事のポストから解任更迭。今回は立憲の党規約に基づき常任幹事会に諮り「幹事長注意」。さらに、小西氏自ら党参院政審会長の辞任を申し出、自身のツイッターで謝罪。

 この時点で小西氏は様々な役職における職権を手放したといえる。

 

しかし、

この対応を不服とする政治家を含め、特にネット民の言葉を借りてはいるが実際はメディアの声ともいえる。

4月12日、FLASH配信の記事によると、今回の立憲・幹事長注意だけで終わった処分を不満だとし、SNSでは、立憲の対応を冷笑するような声、あるいは小西氏の辞職を求める声も、、、と記事は続いている。

 特に、4月6日の維新・馬場氏の「(党内に)小西氏を追及するチームを作った方がよい」という発言から見えるものは、小西氏の「政治的公平性における報道の自由」についての問題意識について、初めから維新とは共有されていなかったことが分かる。政治的価値観が違う政党同士が、馬場氏の言う通り共闘関係を維持できるはずがないのかもしれない。

 

そして、

今日、木曜日の衆院の憲法審査会。緊急事態について現実味のない高潔な議論が続く中で、立憲の谷田川元氏は現実的な、いわゆる地に足がついた意見を述べていた。「緊急事態であっても国会の機能を維持しなければならないとする」というコンセプトに対し、谷田川氏の意見は「国会機能を不全にする、時の政権による恣意的な衆議院解散についての議論を先にすべきだ」つまり、「総理の専権事項である解散権についての議論」を求めていた。

 憲法改正が目的化し、緊急的改正であるかのように国民に訴える前に、憲法に対する現実の遅れについても厳しく見つめ、あるべき姿を考える。谷田川氏のような視点もこの憲法審査会には必要だと思う。