今回の立憲民主党・党執行役員の国葬不参加は当然の事だと思う。
国会に諮ることなく、野党を除外し国葬が閣議決定された意味について、本来ならば、他の野党もきっちりとこの事実に向き合い、見解をまとめておく必要がある。
内閣の決定だけで易々と国政を動かし予算についても国民の承認なく動かせるという既成事実がまかり通るのであれば、国葬批判は当然の成り行きだと思う。
ちなみに、
「国葬」とは国家が「喪主」となって執り行う葬儀であって、国に功労があった人が亡くなった際に国家儀式として国費を使って行う葬儀だという。喪主を近親者とする一般的な個人の葬儀とは全く異なる。しかし、心優しき国民にとっては、国葬に反対することがすなわち安倍氏の葬儀を否定するかのような行為として受け止められ、従って昭恵夫人が可哀想という事になるらしい。
「国葬」批判は単なる安倍批判から国葬批判をしているわけではなく、事件後発覚した統一教会と政治家との癒着の足元で多くの被害者が生まれ、そして、最も罪深いのは、民主主義に対する国民の信頼を裏切った事ではないかと思う。岸田政権に自覚はないが、民主主義に対する姿勢は安倍政権から今なお引き継がれている。
9月15日のTBS・NEWSDIG配信ニュースでは、連合の芳野会長が27日に行われる国葬儀に出席する意向が表明された。芳野氏は「今の形式のままで実施を強行することは受け入れがたく、今からでも国民の理解につながる具体的な対応を取るべき」と政府に注文を付けたが、苦渋の判断として出席の意向を示した、、、という。さらに芳野氏は、「海外からの来賓が多く参列する中で、労働側代表としての責任を果たす」、、、とも述べているが、この労働側代表の責任とは何か?
むしろ、多くの労働者が国葬の趣旨に賛成し弔意を表しているとの間違ったメッセージに取られなかねない。
あっちに顔を立てこっちにも顔を立てるという中で主体的行動がとれなくなる。
民主主義が根ずくには相当時間がかかるのかも・・・事を荒立てず無難なほうへと逃げ続けるうちに闘う事すら忘れる。
付け加えると、
芳野会長の言葉通り、海外からの来賓が多く参列する中で弔意を示すことが、労働側代表としての責任を果たすことにつながると考えるのであれば、行為そのものが卑しくはないか?
国民が野党に求めるのは、決して物わかりの良い解決策ではない。政権と対峙する中で苦しくとも戦う姿勢に共感を覚えるのであって、政権のご機嫌を取ることではない。
今、野党が闘わずしていつ闘うのだろうか?