昨日に続き、2月10日の憲法審査会での石破茂氏(自民党)の発言で考えさせられたことは、日本の安全保障について、肝に当たる部分を明確な議論展開で明らかにしている点である。
第一の問いは「日本は本当に独立した主権国家なのか?」。二つ目、「独立した主権国家の要件とは何か?」。領土、国民、統治機構において国家としての主権が守られていることである。では、日米安全保障条約における日本の現実は本当に独立した主権国家としての要件に当たるのか、、、というように論理を組み立てて展開していく形はより具体性があり分かりやすい。
よく言われている、“「現実的」な安全保障政策”という表現であるが、何が現実的なのかは個人のイメージ次第という事になり、明確なロジックが必要な安全保障政策のような議論には向かないと思われる。また、政治家が好んで使う、この「現実的」な思考は、時に、現実に流される事でもある。
「現実的」表現についての不信感と疑問から、少々長くなるが、2020年2月6日のブログとこの中で取り上げた2018年2月6日のブログも合わせて再発信したい。
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やっぱりか。
物が小型化し使いやすくハンディになる。まず、使いやすさを実証する誘惑に勝てず、様々な理由を付けて核使用への距離がどんどん縮まることは目に見えている。
2月6日の朝日新聞3面、「米海軍潜水艦に小型核」「実戦配備「核なき世界」方針覆す・・・の記事。
―米国防総省は4日、爆発力を抑えた低出力の小型核弾頭を搭載した潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を海軍が実戦配備したと発表。米メディアによると、小型核弾頭は、広島に投下された原爆(推定約15キロトン)よりも威力が小さい5キロトン級に抑えられたという。ルード国防次官の声明では、ロシアなどを念頭に、「抑止力を強化する」と強調―
一方で地球温暖化という得体の知れない脅威。科学的に立証しようにも地球に刻まれた痕跡をつなぎ合わせるしか方法が無い。地球の命をいかに永らえさせるかという視点より、いかに効率的に自国以外を破壊するかに力を注ぐ。北朝鮮にとってもこの小型化された、核への魅力には逆らえずますます人々の暮らしと抑圧は激しくなる。
私たちは、特に日本はこの「抑止力」という言葉の前に、一も二もなくひれ伏してしまう。ほとんどDNAレベルではないかと思う。世界で唯一の被爆国、それも念入りにタイプの違う実験が行われた日本であっても、この「抑止力」ということばの前には弱々しく黙り込む。
2年前、「国会審議」考 その22 を再発信する。
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「国会審議」考 その22 2018年2月6日のブログより
2月4日の朝日新聞一面、「米、『核なき世界』放棄、運用拡大へ弾頭小型化」の記事。続く3面、7面そして社説に至るまでじっくりと読み通す。
記事は、トランプ米政権が2日に中期的な核政策の指針である「核戦略見直し=NPR」を打ち出し、これまでのオバマ前政権が目指した「核なき世界」の理想を放棄し、歴代の大統領についても「核兵器や核施設などの必要な近代化を先送りしてきた」と批判し核兵器の近代化や役割拡大を進める考えを明らかにした・・・と伝えている。
そして、わが国、日本は、間髪入れずこのNPR を「高く評価する」と河野太郎外相が述べたとか。理由として、NPRが同盟国の安全確保に対する米国の関与強化を強調した点を評価したためと記事では伝えている。3面では、「被爆地募る危機感」の記事に、ヒバクシャの人々の無念さが伝わってくるようで苦しくなる。何故か唐突に、多くの戦死者のために慰霊の旅をつづけ平和を祈り深く頭を垂れ献花されていた天皇陛下ご夫妻が目に浮かぶ。また毎年暑い広島で年老いた方たちが膝をおり祈りを捧げる姿も。
2月5日の予算委員会。立憲民主党の逢坂氏がこの米国の核戦略・NPRについて質疑している。
逢坂誠二議員が最初に河野外相に問いかけたのは、NPRについて「高く評価する」と述べた理由について答弁を求めた。
河野氏の答弁は、日本は北朝鮮の核及びミサイルの脅威にさらされている。核に対する核と言う抑止力を持たない日本にとって米国だけでなく同盟国にも核の抑止力をきちっとコミットすることが明確に謳われているNPRを高く評価する。
続けて、核廃絶に対する米国の道義的責任についての問いかけに、河野氏は、オバマ大統領の時と比べて北朝鮮の核の脅威はかなり進展している。また中国、ロシアの新たに進展している核の脅威が増している中で米国の方針が以前と違うのは当然である。
最後に、「安全保障のジレンマ」についての逢坂氏の言及に、河野氏の答弁は北朝鮮の脅威を現実のものとして受け止めている日本の立場としては、米国による抑止力の実効性の確保とわが国を含む同盟国に対する核抑止へのコミットメントを明確にした点において高く評価しない理由はない・・・と再度に渡って強調した。
この自信過剰ともいえる河野外務大臣の答弁は、防衛に関して現実的なアプローチの重要さを強調するあまり〝現実に流される”ことで国としての立ち位置まで見失う事の危うさに気づいていないのではないかと思わざるを得ない。
この「現実的」という言葉はいたるところで聞かれるようになった。
特に防衛問題で、また改憲の議論の場で理想や信念を蹴散らし嘲笑っているかのような論調が目につく。この手の暴論はネット、テレビ、評論家、受けを狙う似非学者間でも幅を利かせるようになった。いずれも戦争を知らない世代、国会では40代、50代の国会議員に多く見られる現象のように感じる。複眼的に物事を考えられず針の穴を通してしか物を見ていない自信過剰な人間に好んで使われているように見える。
核が小型化しハンディになったところで核は核である。
核兵器の改良、近代化とはとどのつまりいかに効率的に人を殺傷し核汚染を拡大させるかと言う事ではないか。互いの国が懐深く核を忍ばせ友好関係など築けるはずもなく、いかに先制攻撃で出し抜くかに神経を磨り減らす。この核の均衡を本当に日本国民は求めているのだろうか?安倍政権にその覚悟があるなら論理立てて説明してほしいものだ。
米国が先手をきって核の先制攻撃を辞さないことを宣言することがどのような結果を生むか想定できないようなトランプ政権。追随する日本。この挑発とも受け取れる行動は、安全保障のジレンマを誘発し今まで以上に安全保障環境が不安定化することが目に見えている。
その時、
アジア極東から一番離れている米国本土は無傷。小型化された核の応酬によって日本近海、極東アジアが最初の犠牲になることが大である。米国の新型核爆弾を搭載できる核巡航ミサイル開発を日本が率先して支持した挙句、日本が初の実験場にならないように祈る。かって広島、長崎がそうであったように。
人類の核に対する幻想はいつまで続くのだろうか?
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