あまりに目に余る行為。近頃の政治家の様変わりに深く落胆する。

 

国会の場で必ずと言ってよいほど前座で立憲批判を繰り返す維新の足立康史氏。お笑い芸人のように相手方(気になる野党)を叩いて笑いを取る。笑い声を上げて楽しむ女性の国会議員。眉間にしわを寄せ批判的な目で手を握りしめる野党議員。天を仰ぎ全くどうしようもないという表情の議員。与党の席からも様々な反応が見て取れる。しかし、概ね苦笑、あるいは嘲笑的な反応が主なのが救いである。

 しかし、当の本人、足立氏はこの役どころに満足してへらへら笑っている。他党批判であっても実のある議論ならまだしも結局何を言いたいのか分からず、尻切れトンボ。単なる維新流のイエロータブロイド版のお披露目が目的だったという事が後になって分かる。

 

改めて、25日、衆院予算委員会、午後の国会での足立氏のの質疑に照準を当てて、分析してみる。

開口一番。足立氏は午前中の立憲の階猛氏の消費減税の質疑をとりあげ、言いたかったことは2点。「午前の部で先に取り上げた立憲と一緒にされたくない」「この消費減税案は、僕たち(維新、国民民主)が先に提案したことだ」という事。この結論にたどり着くまでネチネチと立憲への当てこすりが続いた。私生活でこんな人物に関わったら最悪、と思ってしまうほどダラダラ.・ネチネチと無駄な言葉が並ぶ。

二つ目。

やっと本命のヒトラー発言。

ヒトラー発言を引き合いに、「野党のひどいレッテルはりと印象操作が国益を毀損してきた」と、初めの段階できっぱりと結論づけ、何を思ったのか、国家戦略特区に話が飛ぶ。開催回数が少ない旨を岸田首相に問いただしてはいるが、本命は加計学園。加計学園のイメージが悪いのも、野党が植えつけたせいだと本音を語る。本音を語っても、結果として何を言いたいのか分からない。

三つ目。

原英史氏に対する名誉棄損裁判。以下、ネットから拾ってみると政府の国家戦略特区ワーキンググループの原英史座長代理が立憲民主党の篠原孝氏に損害賠償を求めた訴訟についてで、まだ訴訟途中であるにも関わらず岸田首相に感想を求めている。

このやり取りを聞いている国民にとってもよくわからない。足立氏の目的は一つ。これも立憲民主党が関わっているからである。

足立氏の質疑がやっとコロナに質疑が移っていく。どれだけの時間が費やされただろうか?維新が立憲民主党を“コロナを後回しにして批判ばかりする野党”とヤジっていたことが思い出される。

 

サブリミナル効果とも重なるが、日常的に敵とみなす人、あるいは思想、団体についての情報を継続して流し続けることによっていつのまにかそれが人々の間に定着し、それが事実であるかのように認知される。つまり道理が通らないめちゃくちゃな議論であっても国会という公の場で発信され続けていく中で、これらの発言に捕りこまれる。あたかも先のブログで取り上げた、アドルフ・ヒトラーの名言まとめ(聴衆を鼓舞した演説とは)にある様に、「リーダーシップの技術として、一つの敵に対して人々の注目を集め、その注目を分散させないように注意することにある」。つまり、道理が通らなくとも、敵だと認知させ、たとえ間違った情報であろうとも絶えず同じ情報を与え続けていくうちに知らず知らずのうちに人々の間に定着してしまう、という解釈。

もしこのような社会が実現されれば、本当に怖い世界ではないか?

 

今や、政治家は来る参院選を意識して、維新はじめ、国民民主、自民党の世耕氏等が入り乱れ、言葉は悪いが、立憲民主党をエサに、人権、国際レベルなどのワードを使いながら党利党略に発展しつつある。

 このコロナ下、人々の心はやせ細っている。元気であれば、立ち止まり時間をかけて考えることができるが、国民全体の考える力が弱っていることを思えば、政治家はいい加減な知識を振りまくことは止めてほしい。

 

これら政治家の言動は・・・率直な印象としてエサに喰いつくピラニアをイメージさせる。

これが日本の知性の実態であるとするなら、パンデミック下の国民など救えるはずがない。

追記;

1月28日の産経新聞。「菅直人氏ヒトラー投稿問題 『立憲民主党は関与せず』泉代表」の記事。泉代表の大人の対応に、思わず「ベストアンサー!」とつぶやいた。特に、参院選を千載一遇の機会ととらえているような前のめりな維新を見ていると良識が通じるような相手ではない。今はコロナ禍の非常時。時間的余裕はない。ヒトラーが過ぎて今度は何を持ってくるのか。彼らにエサを与えないことが大事である。鍵はしっかりと閉めて参院選に臨んでほしい。

泉代表の透明なバランス感覚は混沌とした中でこそ力を発揮すると思っている。