1月日23日21時51分現在、まだ投開票の結果は出ていない。

23日のFNNプライムオンライン配信によると、「名護市長選挙に立候補しているのは、届け出順に、新人で元市議会議員の岸本洋平氏と、2期目を目指す現職の渡具知武豊氏。争点は、普天間基地移設。

岸本氏は移設反対を前面に打ち出し、現職の渡具知氏は賛否を示さず、陣営も積極的に争点化していない」、と報道されている。

 

今入ったニュース。沖縄タイムス「辺野古反対の候補に5089票差 名護市長に渡具知氏が再選 玉城デ二―知事に痛手」の記事。

 今回の投票率は68.32%。2018年時より8.6ポイント下回っているものの、名護市民の意志の結果であることは事実である。

 今後の動きとして、渡具知氏の再選により、新基地建設阻止を掲げる玉城沖縄県知事らの「オール沖縄」勢力は今後の県政運営への影響が必至との見方がされている。

 

米軍基地を震源とするオミクロン感染爆発を目の当たりにしても、今回の名護市民の投票結果は、これから沖縄の前途に大きな影響を与えることになるのではないか?

ともすれば、沖縄から遠く離れた土地に住む者にとって、沖縄の基地問題はこのような選挙があった時しか注目されず、相変わらず、沖縄はリゾート地として海と自然の観光名所として考えられている。沖縄の歴史的背景、今後も続く基地・沖縄としての役割については、政府からは安全保障の視点からも真剣な議論を聞いた事が無い。特に新基地の軟弱地盤にかかる膨大な費用、加えて、工事に付随して周囲の沖縄の自然にどれだけの犠牲が強いられるのだろうか?しっかりとした試算については未だに示されていない。

 

沖縄の現状は、(故)翁長知事が憂いていたように、民主主義の原点ともいうべき自己決定権が蔑ろにされている事ではないか。自由と民主主義は寝ていて手に入るものではない。法の支配を隣国に求めるのであれば、沖縄における法の支配は健全に行われているのだろうか?

 なし崩しに不合理を受け入れ、崩れゆく民主主義の原点まで見失いつつある様を見ていると、これがわが国日本のありのままの姿であるような気がしてくる。

 

3年前のブログを再発信したい。

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「考えることを止めた社会」 2019年1月20日のブログより

人の親として、沖縄から遠く離れたところで、ハンガーストライキを続けていた宜野湾市市役所前の青年のことを心配していた。15日午前8時から始まったこの青年のハンストによる抗議が、沖縄タイムスによると105時間に及んだと言う。

 今は終わって良かったと思う気持ちで一杯である。親御さんの気持ちも彼の仲間もまずほっとしたのではないかと思う。

 

真っ直ぐに抗議する。素手で戦うしかないような戦いに追い込んだ政治、社会は本当に病んでいるとしか言いようがない。彼、彼らの意見を民主主義と言う英知で救い上げられない社会を大人は立ち止まる勇気もなくただ傍観する。揚句は自己肯定の為に青年の行動を無知と言って冷笑し批判する。

正真正銘の無知とは、自身が無知であることを知らない人間である、という言葉がリアルに響く。

 

 

どの親も子供がきちんとした大人に育ってほしいと願わない親はいない。もし子供がいじめをする側であったり、あるいは遠巻きに見て見ぬ振りするような子供であれば自分の育て方も含め反省する。ただ残念なのは、そこで終わってしまい、大人の自分はどうなのかと問うことまでしないのが一般的な親のかもしれない。

現代の親たちは、生活の歯車を回すことに忙しく、一方で返す当てのない借金だけが膨らんでゆく社会に生きている。規格外れのブリキははじかれ、規格通りの群れがギコギコ軋みながら当ての無いまま流れているようなSFもどきの社会をイメージする。

 

そして、

対照的な母の時代。昔は良かったと言うつもりはない。むしろ政治の手が届かず自分の力だけで生き抜かざるを得ない時代だった。食うや食わずの生活の中で、四季の隙間に獲れる野草も腹を満たす食材になった。母は賭けで身を持ち崩した再婚相手を見限り、弟を引き取り女手一つで6人の子を育てた。地べただけしか見えないような生活は人任せでは生きられない。母の姿を通して人の道を教えられて育ったように思う。親は親の生き方を通して子に教える、と言う最も動物に近いようなシンプルな生き方が母の時代ともいえる。

 

わたし達はこの十数年、何を得て何を失ったのだろうか?

 

人口減少時代。

規格通りの人間で構成された社会。自分の言葉で語ることさえ自制する社会。一方で疑心暗鬼に駆られますます武器に依存し要塞化する世界。

考えることを止めAIが仕切る社会・・・そして誰もいなくなった社会に何が残るのだろうか?

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2022年1月23日。

コロナ下、最近の事件を見ていると人々が追い詰められ、暴走しているように感じる。苦しんでいるのは皆同じとはならない。家族に支えられ、一定程度の収入と家があれば、何とか人間らしく善悪の判断もつく。行き場を失って自暴自棄になっている人々の深刻さは贅沢な食事と酒に囲まれている、特に政治家の目にはこの状況が理解できない。むしろ政治家の罵詈雑言が心の分断を生んでいる。

所得格差も深刻だが、ネット社会においての心と心の分断は昔の比ではないような気がする。

食うや食わずの母の時代より、心が殺伐としてくるのは何故か???