2022年1月3日の朝日新聞、社説。「岐路に立つ民主主義」を読む。

コロナ禍で、人々は生活困窮者に限らず、夫々一様に傷ついている。コロナ前に屈託なく人との交友関係を持っていた人々も、疲労感と喪失感が心の奥底に影を落としている。寛容だった人もそうでない人も一様にとげとげしくなっているように感じる。寛容なる精神の民主主義は増々しぼんでくる。

 

朝日新聞の社説では、民主主義が先進国から崩れ始めている状況を伝えている。

社説の中で、一部政治家が敵対心を煽って支持拡大を図っている。「異なるアイデンティティーの胎動は脅威と認識される。恐れや憎悪などの感情がもたらす効果は絶大」(米政治学者のフランシス・フクヤマ氏)・・・が引用されている。

 

2017年、2020年と民主主義についての疑問も含め書き続けてきた。ここに再々発信したいと思う。

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「彷徨うマスコミ」 2017年1月3日のブログ中盤からの抜粋
2017年1月1日の朝日新聞一面記事。「試される民主主義」の横見出しにほっとする。

 

昨今、国内国外共々「民主主義」が権力者のご都合主義の犠牲になっているように思えてならなかった中で、この見出しに込められた記者の思い、こちらの思い込みかも知れないが分かるような気がしてほっとしたのかもしれない。

続く2面で「苦悩する民主主義国家」。かなり掘り下げているものの「民主主義ってなんだ?」と国会前で問いかけたSEALDs創立者の奥田愛基さんの一面記事の疑問に戻っていく。

民主主義をより深く知る上で歴史的視点からも検証してみたい気になる。

そして

2面の「『完璧』ではないが代わりもない」の中見出しに帰結する。

 

「完璧ではないが代わりもない民主主義」の考え方は、近代の凶暴な嵐をくぐり抜けまだ間がないと考えるべきで、民主主義の発展途上ともいえる。

第一段階として武力で決着しない事がまず求められ、第二段階として少数意見に耳を傾け妥協点を探る。民主主義はある意味「偽善」の衣をまといながら、じっと、忍耐強く細い糸を手繰り寄せていく過程なのかもしれない。

おそらくこの方法がより現実的な人類の延命方法であり知恵ではなかろうか。

 

しかし

あの巨大な権力を手中にしたトランプは「偽善」を脱ぎ捨てたことで偽善に飽き飽きした人々の心をつかんだともいえる。

 

これから本当の意味で日本の真価が問われる。

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2019年1月4日

ネット検索で、国務省出版物として、「民主主義の原則―概要:民主主義とは何か」About the USA 出典は英文での‟Principles of Democracy” 日本の仮翻訳の中から、最後の文章をここに書き留めておきたいと思う。
・民主主義社会は、寛容と協力と譲歩といった価値を何よりも重視する。民主主義国家は、全体的な合意に達するには譲歩が必要であること、また合意達成が常に可能だとは限らないことを認識している。
マハトマ・ガンジーはこう述べている。
「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の民主主義精神の成長にとって障害となる。」
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2022年1月3日。
民主主義。
「30年前に冷戦のくびきから放たれた『自由』と『民主』は、なぜ危機に陥ったのか。立て直す道筋は何か。その答えを探すにはまず、先進国自らが足元を見つめ直さねばなるまい」・・・冒頭の朝日新聞社説の文面より。
 先進国云々より、日本の政府・政治家に依存しすぎる国民性から脱して国民一人一人が自らの将来へ向けて足元を見つめ直す必要があるのではないか。立憲民主の草の根民主主義に通じる?・・・残念ながら今はイメージでしかないが。