以前にもブログで触れたが、中公新書版、宇野重規氏による「保守主義とは何か」の本。何度も読み返しているがそのたびにハッとさせられる。的確な無駄のない言葉に感銘を受ける。

新聞を含め様々な言葉が飛び交うニュース報道。「言葉」そのものの機能がどんどん薄まり、もはや叫びに似た「感嘆符」と化し、してやったりとする感情的な憎悪の応酬の前に言葉そのものの機能が失われる。

 

政治の場面において特に顕著になっている。

岸田首相の「聞く力」も「返す言葉」が無ければ、一方通行の「感嘆符」と同じである。

“安部派か非安部派か”“改憲派か非改憲派か”“リベラルか保守か”にも表れているが、単純に2極化することで事の本質を見えなくさせているように思う。考える力がどんどん後退していることに気付かず、そのうち、この思考方法が当たり前になり、夫々の立場を全否定し憎悪の対象でしかなくなる。

 

冒頭に挙げた「保守主義とは何か」の中で、特に感銘を受けた言葉としてここに書きとめたいと思う。

<終章> 二十一世紀の保守主義、新たな対立軸の中で、宇野氏が語ったのは、リベラルと保守との違いは決してなくなることがないはずだ、としたうえで、「いずれにせよ重要なのは、多様な思考の共存を可能にすることである。その意味で、最も深刻な危機となるのは、リベラルと保守のいずれもが原理主義的になり、相互を全否定することである。普遍主義の名の下に、あらゆる集団や組織への愛着や忠誠を否定するのが暴力であるとすれば、仲間内の団結のために、その外部にいる人間を敵視し差別することも野蛮に他ならない」

さらに、歴史的な保守本道ともいうべき言葉を付け加えると、

「自分たちの知はつねに有限であり、すべてを見通すことはできないとする保守主義の謙虚さが重要である。自分たちは誤っているかもしれない。だからこそ、過去から継承してきたものを大事にしつつ、それを必要に合わせて修正していくことが大事である」

 

2019年12月30日に「野党合流について」のブログを書いた。その中の後半の一部をここに再発信したいと思う。

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「野党合流について」 2019年12月30日のブログ、後半部分より。

いずれにしても

「現実」を重んじること、イコール安倍政権がやってきたことが現実的?と考えている限り安倍イズムからは逃れられない。原発、安全保障が分かり易い事例である。安倍政権を中心に置き、右にずれれば右派、政権の行き過ぎを止めようと左に引き戻せば左派、綱引き状態にある中、中道などというどっちつかずのものもある。米国メガネ、安倍メガネと何かのメガネを借りなければ見えない現実など生の現実とは言えない。
自分の頭で考えてほしい。自身の目で国民を見てほしい。
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2021年12月30日。
今日のJCASTニュース。「迫力があれば選挙に勝てたんですか?」 立憲・泉代表が「提案型」にこだわる理由 「インタビュー」の記事。
通り一遍の記事とは違い泉氏の人と考え方がある程度伝えられたのは良かったと思う。特に、記者の問いかけに、「批判先行型は必ずしも支持に結びつかないとしても、一方では監視力が高いからこそ、問題点を明確にすることができて提案ができる」に至ってはコペルニクス的展開ともいうべきで爽快だった。
淡々と普通に見解を述べ主張する。「普通である事が一番難しい」ことも国民は見抜いている。パーフォーマンスはいずれ飽きられる。