妻と娘と三人でカフェでティータイムを楽しみ、そのまま小樽までドライブ。
娘の帰りのバス時間からみて、小樽でのんびりできる時間はないけど、かま栄でかまぼこを買って帰って来ようと向かうことにした。
帰りのバスは札幌駅から18:00発。
かま栄を出たのは17:00。
夕方の混む時間帯、1時間ではなかなかキツイ。
これまでなら「出遅れた」と焦る場面だろう。
「どうしてムリして小樽まで来たんだろう...」と悔いたかも知れない。
でも今日は、一日中気分よくヴォルテックスの中で過ごしている。
カフェを出て「小樽まで行こう♪」と向かった時もそう。
ヴォルテックスの中に居て”間違い”が起こることはない。
だから”今”この瞬間、すべてが大丈夫なのだ。
とにかくヴォルテックスの中に居よう。
帰り道もずっとヴォルテックスの中に居よう。
それしか考えなかった。
道路は確かに混んでいる。でも滞らず流れてはいる。
内側車線か?外側車線か?
これまでは「どっち走った方がスムーズか教えて!」とハイヤーにお願いしていた。
でも今日は「自分の走っている方がスムーズに流れると知ることだよ」とハイヤーが教えてくれた。
既に確定している状況を回避しながら進むのではなく、進みながらすべてを創造しているということ。
それらすべては波動によって創造されるということ。
だからヴォルテックスの中にさえいれば大丈夫なのだ。
信号待ちのたびに目を閉じて
『すべてが満ちている』
『すべて思い通り』
という感覚の波動でヴォルテックスの中に居続けた。
時間の流れをも創造することを許可した。
どこまでも自由に、自分に都合のいいように創造することを許可した。
どんなに利己的な理由からの創造であっても構わないことを許可した。
どのように車が進むかに意識を向けるのではなく、
駅に到着して「あー、ピッタリだったね」と安堵して見送ることをイメージして、
娘は無事に帰り、私たちは夕食後エイブラハムのDVDを観て寛ぐことをイメージした。
(妻も同じようにしてくれていたと後で聞いた)
焦る気持ちは湧き上がらず、落ち着いた気持ちで、大丈夫だと確信していた。
これまでは、最悪を想定して、そうなった場合の対応策や、そうならないための回避策ばかりに意識を合わせていた。リスクマネジメント、リスクヘッジの思考だった。
まんまとそうなったり、まんまと回避策のおかげで難を逃れたりもした。
でもそうする必要がないことを知った。
それを選択しなくてよいことを知った。
いい気分になって、ヴォルテックスの中に居れば、すべてがうまくいくことを知った。
そしてそれを実践している。
久しぶりに家族四人揃って、楽しく、美味しく食べた朝食。
どのデザートも美味しくて、会話も弾んだティータイム。
かま栄のかまぼこを食べながら運河通りを走り、小樽を満喫したような気分を味わい、
タイトな時間ながら、スムーズに走り着いた札幌駅までの帰り道。
とても満足そうに帰って行った娘。
そして同じくとても満足した私たち。
帰宅後妻が
「これまでの願望の応えが、もうすべて用意されてるんだ!それをどんどん受け取るだけでいいって実感した!」と嬉しそうに話した。
まさしくそのとおりだと私も思った。
素晴らしい体験が待ち行列になっている。
全部自分たちが出したリクエストの応えたち。
受け取りを許可するだけで、これから次々と現れる。
そしてまた、さらなるリクエストを出して、受け取り続ける。