アウシュビッツ収容所から生還した精神科医で心理学者のフランクルは、

 

どんな苦難にも意味がある

 

と言っています。

 


私達が「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私達は、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私達に問いを提起しているからです。私達は問われている存在なのです。私達は、人生がたえずそのときをそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私達が生きていくことは答えることに他なりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

 

 こう考えると、恐れるものはもう何もありません。どのような未来も怖くはありません。未来がないように思われても、怖くはありません。もう、現在が全てであり、その現在は、人生が私達に出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。全てはもう、そのつど私達にどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私達を待ち受けているかは、知る由もありませんし、また知る必要も無いのです。

 

このフランクルの言葉にはとても勇気づけられます。

 

私は、自分のモラハラ、フキハラが原因で、妻から離婚され、家族を失ってしまいました。

 

高い養育費を支払いながら、孤独に独りぼっちで暮らしていると、ついつい、「何のために私は生きているのか?生命保険もかけており、それで子供達はまっとうな教育を受けることが出来るから、私はもう死んだ方が楽なのではないか・・・」と悲嘆にくれることがあります。

 

しかし、フランクルに言わせると、この「なんのために生きているのか?」と考えること自体が間違っているのだ。

 

私自身が、「私は何の為に生きているのか?」という問いの答えを見つけ出さなければならないのだと。

 

そう考えると、養育費やお金の問題だけではないことにはっと気づく。

 

子供は、私との面会交流をとても楽しみにしていると、元妻が教えてくれた。

 

もし、私が自殺してしまったら、子供はどのように感じるのだろうか?

 

おそらく、とても傷つき、子供の人生に暗い影を落としてしまうに違いない。

 

そんな思いを、子供には絶対にさせたくない。

 

フランクルの言葉には力がある。

 

生きていく勇気をもらえるのである。

 

↓ヴィクトール・E・フランクルの