アウシュビッツ収容所から生還した精神科医で心理学者のフランクルは、次のように言っています。
あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は声を揃えて言いました。自分の人生には意味がない、「人生にはもうなにも期待できないから」。二人のいうことはある意味では正しかったのです。けれでも、すぐに、二人のほうには期待するものがなにも無くても、二人を待っているものがあることが分かりました。その男性を待っていたものは、未完のままになっている学問上の著作です、その女性を待っていたのは、子供です。彼女の子供は、当時遠く連絡のとれない外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ち焦がれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」というも言える転換を遂行することでした。それは、ものごとの考え方を180度転換することです。その転換を遂行してからはもう「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
『それでも人生にイエスと言う』
私は、この文章を読んだ時、はっとして、涙がこぼれました。
私が人生から求められているものは、子供達のために、養育費を支払い続けることだと。
私は、自分のモラハラが原因で、妻から離婚されてしまい、子供達とも離れ離れになってしまいました。
今は孤独な一人暮らし。
生きる目的や希望を失ってしまったような感覚に陥ることも多くあります。
フランクルのエピソードに出てくる二人の男女のように、「自分の人生には意味がない、人生にはもうなにも期待できないから」と考えてしまうことがあります。
フランクルの文章を読んだはっとしたのです。
「私は、人生に何かを与えてもらうことを期待しているのだ」と。
そうではなく、
「人生は私になにを期待しているか」を考えることが大切なのだと。
そう考えると、離婚され一人になってしまった今でも、人生が私に期待していることは、子供達のために、養育費をしっかり支払うことであるということがはっきり自覚できました。
子供達は、私の養育費が止まってしまうと、希望する教育を受けることが出来ず、夢を絶たれてしまいます。
養育費は月給の3/4に相当し、私の生活はとても苦しい。
「離婚されてしまった今、何の為に、こんなに苦しい思いをして養育費を支払い続けているのだろう・・・」と考えてしまうこともあります。
しかし、フランクルの「人生は私になにを期待しているか」という命題のおかげで、「人生が私に期待していることは、子供達のために養育費を支払い続けること」ということがしっかりと認識できました。
会社では降格になり、会社業績も厳しく、リストラされるかも知れない・・・。
そんな不安も抱えながらも、「這いつくばってでも、子供達のために、養育費を支払い続けよう」という決意を固めることが出来ました。