わからないことだらけ:壷の碑(4)


 前回まで壷の碑について先学の解釈のあれこれを整理しました。
結果として,一応論理的に,壷の碑の伝説はなかったのではないかという喜田貞吉説に落ち着いたのですが,実はなお根本的な疑問が残っています。

1)伝説によると,壷の碑のもととなった大きな岩が,坪川上流にあったという伝説
  確かに発見された碑は,坪川上流に同じ岩質が分布しています。実は現発見碑は碑の大きさが尺サイズに合うので本物とすると,当時地質学など知らない大昔の人達が伝えた伝説は実は本当のことを伝えているとも考えられるのです。近世以降の人の偽作とするならば,なぜ同じ地質の岩を選ぶことができたのか説明が付かないから(これまで岩の鑑定者が専門家以外は誤っていました)。
 本物の場合,通説に逆らい,わざわざ物議をかもす尺サイズの現碑のサイズを選んだか。そして,千曳神社近くにしようとする意識が発生するはずなのに,なぜわざわざ離れた現在地(そこは碑の地質とは全く異なる地質の場所)で発見されたのか? の説明が必要となるでしょう。  

2)碑に書かれてある「日本中央」という字が余りに素朴なのはなぜか?
 同時代の「多賀城碑」,あるいはもっと時代を遡った「那須国造碑」,「上野三碑」でも,刻まれているのは鋭利な文字です。坂上田村麻呂が弓のさきでゴシゴシ擦ったような文字がそのまま残ったとは,逆に信じられない。後任の権力者の綿麻呂が作り直したとすれば,なおさら鋭利な文字でなければ説明が付かない。文字自体の問題は残ります。

3)発見されたのがなぜ現在地なのか。
 河床に拳大~人頭大の河床礫しかない赤川は上流に現発見碑と同じ地質がほとんどなく,流域も狭いため,巨石が流れ込むような川ではありません。原著や伝説に言われているように,碑があったのはもっと大きな坪川流域ではないのか。それも,明治期に千曳神社及び周辺を徹底的に掘り返し調査してなかったという石碑を,ことさら偶然現発見地で発見できたのか不明です。伝説でも赤川に運んだという記述はありません。もし,先学の偽物論者のような無蓋の貨物列車で運んだという運搬手段も無理があるように思います。
現発見地が階段の真下で,両側が崩壊地の崖地であったことも気になるところです。


  何か歯切れの悪い言い方をしてきましたが,はっきり言いましょう。実は,この崩壊地がいつ崩れたか?それが大問題なのです。
おそらく,崩壊地が崩れたとすると,崩壊土砂が直下にたまることになります。砂防工学の経験によると,崩壊土砂は崖下から崖高さの2倍まで達します。すると,約25mの崖の末端(壷の発見地)から現旧東北本線まで約50mの距離ですので,壷の発見地は崩壊土砂の域内にあります。実際碑発見地では崩壊地方面から流れ出る地下水が目撃されます。発見地での赤川は,ほぼ直線的に作られた東北本線の西側(碑の発見地の反対側)を線路に沿って流下していますが,おそらく崩壊土砂が達しなかったからでしょう。碑の直下に赤川に注ぐみずみち(目測秒30~50㍑の流量)が流れているからです。
 壷の碑はその湿地から半ば埋まって発見されたといいます。崩壊が発生したのが平安時代(田村麻呂)以前ならば,そういうこともあり得るであろうが,しかし軟弱な崩壊土砂の上に石碑を建てるだろうか,疑問です。一方,平安時代以後の崩壊がならば,なぜ崩壊土砂中から発見されなかったのか?(勿論崩壊地背後の地質は,石碑と全く異なる岩質だからそういうことがありえないのだが)。
 では,上流から流れてきたのだろうか。赤川は流域面積からいって1トン以上もある石碑の岩を流せる川でないし,万が一流れたものだとすると,「日本中央」などという木で擦ったような微かな文字は土石流のような激しい流れで消滅してしまうであろう。
  以上,地形地質の見地からみた私の観察です。

その結果,誰かが崖上から落としたのではないか,という疑問がどうしても残ってしまいます。

今後崩壊地の新しい資料(発生年代等)が出てくるのを期待したいと思います。
                                              おわり