「泣くな研修医」を観劇
9月17日午後,いわき市平にある「アリオス」で開催された,「いわき演劇鑑賞会340回例会」で,劇団銅鑼を観に行った。
家内の友人が筑波山で捻挫して歩けなくなり,その代行でした。会場で家内の別の友人と合流。
指定席は会場の最後列で,公演時間は1時間45分。
別紙のように,原作は中山裕二郎著「泣くな研修医」(幻冬舎),脚本シライケイタ,演出斉藤理恵子。
早朝の高野病院
原作者は福島県双葉郡広野町の「高野病院」に2,3ヶ月限定の院長として助っ人で赴任し,当時話題になりました。病院の唯一の常勤医であった院長が2016年12月30日,自宅の火災で亡くなりました。高野病院はそれまで東京電力福島第1原発事故後,双葉郡で唯一入院診療を続ける医療機関として地域医療を支え続けましたので,一時的に大きな存続の危機に直面しました。そして,全国からボランティア医師が駆けつけ,診療体制の維持に向けた取り組みや支援,クラウドファンディングなどが行われたのです。
原作者によると,舞台化の打診が来たとき,すぐ断ろうと思ったそうです。一晩悩み,自分の物語が,脚本家や演者によって新しく解釈されて別の作品となり,それを受容し感じることで,作り手として次のステップに行けるのではないかと思い直し,結局受諾したというのです。
写真は翌9月18日早朝6時頃,当日宮城県の多賀城遺跡の現地見学会に参加する途上,立ち寄って撮影したものです。折から町内放送で,唱歌「汽車」(広野町を唱った歌?)が流れてきました。「 今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと 思う間も無く,トンネルの闇を通って広野原」。
舞台は,キャスター付きの部屋を模したの衝立を場面の暗転毎に動かすことで,診察室,ベッドルーム,医師看護師の部屋が代わる,簡単で効果的な工夫がなされていました。そして,その都度頭の切り替えが出来て面白かったやり方だと思いました。
ただ,演技初期の頃は登場人物と人物関係について,演劇ではよくある月並みな場面が多く,おもわず寝てしまいました。隣に座った家内から何度か肘鉄砲で目を覚まされ,家内の友人からも,彼女の旦那にも肘鉄砲を食らわせていると慰められました。
劇中で私が感心したり,感動したりした場面がありました。
主人公が担当していた同年の患者を死なせてしまって落ち込んでいた時,古参の看護師から,院長が若い時患者を励ますために,恥ずかしげもなくどんなことでもやったということを聞き,最後の頃の重要な場面で,院長の前で,若い時の院長のように,そっくり泣き笑いながら真似して患者に対応して見せたことでした。その時の院長の照れた顔。それは素晴らしいものでした(最後列なので勿論表情は見えなかったけど,態度の演技でわかりました)。次に,元気になったら食べたいか?と聞いたことに,ウニの貝焼き,長久保の紫蘇巻きと,いわき市の名物を言ったアドリブ(勿論地元へのリップサービス)に笑えました。
最後に同年の患者が肺炎で亡くなった時,家族の悲鳴に近い叫びに心が震えました。
私には父の病室の経験があったからです。
父は友人の選挙を義理で応援していました。田舎の地縁がない余所者は当選できないことが分かっていて,立候補を諦めるように再三助言していたのです。が,彼方此方回って風邪をひいてしまいました。近所の医院で単なる風邪との誤診で手遅れになってしまいました。夜間脳に変調がきて(悪いことに市内の医療センターに空きがなく),北茨城の脳外科に運び込まれました。風邪が髄膜炎にまで進んでしまったのです。
ベッドルームは定員6人の部屋でした。脳外科の患者は快復不可能の重傷患者です。そういう患者の血圧が急に血圧80位に落ちると,看護師が慌ただしくなって医師も飛んで来るのです。そして患者はそのまま亡くなってしまいます。私は母が看病疲れで倒れた時,代わりに何度か数日間昼夜父の面倒をみたことがありました。夜の睡眠は隣人のベッドとの間に寝るのですが,真夜中に突然看護師が慌ただしく何度も出入りし目が覚めます,その後,家族の悲鳴と号泣が寒い早朝の闇夜に冷たく響くのでした。私はその時寝たふりしか出来ませんでした。そして,仏様と家族が部屋から出て行きます。
あの患者遺族の断末魔は耳を強く押さえていても,今も私の脳内から聞こえてきます。
その場面を想像してみて下さい,早朝の寒気の中で耳を塞いでも空気の振動で聞こえる鋭い複数の絶叫を。
しかし,不思議なもので,朝の病院食が配られると,無神経に食べることが出来るのですよ。
劇中の叫びから,昔の緊迫した脳外科病室の時間が急に思い出されました。
公演が終わり会場を出る時に,私は足が少しふらつきました。
おわり


