キプロス紛争の最近(令和6年6月)


 今年2024年(令和6年),6月8日~12日,短期間キプロス島を訪れました。
我々が社会人になって2年目の1973年にキプロス紛争起こりました。今も当時のことは記憶に残っています。今年は丁度50年目。この6,7月,ニュースで現地の政治状況が時々報道されています。私がキプロスを訪れた目的の一つは,当時の南北分断状況が現在どうなっているかを目視することでしたが,特に50周年を意識した訳でなく,偶然訪れたのです。
 旅行の報告に政治的な偏見を持ち込むわけではありませんが,この際,キプロスに行く前に資料から仕入れた知識に,現地ガイドの説明と私の見聞を加え,纏めてご報告したい。

 

   キプロス全図:ファマグスタから西に延びる二重破線は国連軍の緩衝地帯

   緩衝地帯より北は,北キプロス・トルコ共和国,南はキプロス共和国

   レメソスより南に突出する半島部はイギリス領 

 

 首都ニコシアの上空斜め写真(GoogleMap)

 中央下半部の円形がニコシア旧市街

 遠くキレニア(=ギルネ)に向かう峠道の左手の山腹に北キプロス・トルコ共和国の国旗

 が刻まれている。

 

          国旗の拡大

 

 

      ニコシア(別名 レフコシア)の地図

       中央東西の線が国連の緩衝地帯(グリーンベルト) 

 現在,キプロスは,トルコ系住民支配地域の北キプロス(1975年の北キプロス・トルコ共和国樹立宣言)とギリシャ人支配地域の南キプロス共和国とに分断されている。北キプロス・トルコ共和国を承認しているのはトルコ国だけである。1979年には両国で連邦制が合意されるも実現されず,現在に至っている。これとは別に,キプロス共和国の南端の半島部はイギリス領キプロスとなっている。
 私見であるが,キプロス紛争はトルコのギリシャに対する深い不信と,スエズ運河の出口の要衝キプロスを手放したくないイギリスの思惑が底流に横たわっていると思われる。
  南北キプロスは国連平和維持軍による緩衝地帯により分断されているが,この緩衝地帯は,首都ニコシア旧市街をも分断している。ニコシア旧市街はキプロス王国時代を経て,ベネチア時代に建設された城郭都市で,直径約1.3㎞の円形をなす城壁と空堀によって囲まれ,円周に11箇所の要塞と3つの城門を持っている。緩衝地帯は町中で狭くなっているが,市街地以外は両側をコンクリートとバリケードで形作られ,要所には銃をもつ兵士が監視している。私達は,北岸のキレニア(=ギルネ)にバスで向かう際,二重の検問所を通過するのに40分ほどかかった。帰路は北の城門キレニア門から南に徒歩で向かい,緩衝地帯を通過したが,バスの通過はトラブった。

 

  

          緩衝地帯

 

  

   国連軍の詰め所(武装した兵士が監視している)

 

  

        検問で渋滞40分


 ニコシアから北キプロス北岸のキレニア(=ギルネ)に向かう道路沿いには,大規模な大学やモスク,工場などの建設が着々と進んでいる一方,ニコシア市内ではキャラバンサライ,大衆浴場,食堂,マーケット等が残る。勿論北ニコシアには北キプロスの政庁がある。キレニアに向かう峠ちかくの岩壁に大きな北キプロス・トルコ共和国の国旗が刻まれているのが目立つ。

 

    北ニコシアのサライ(現在は各宿舎は本屋など各種の店となっている)

 

    日曜日に関わらず飲食街は人通りが多い。

 

 

   南ニコシアのファマグスタ門近くにある大司教宮殿(大統領官邸)

 

   聖ヨハネ教会(搭)。入り口に立つ白い初代大統領マカリオス3世の像

 

          大司教マカリオス3世・初代大統領  

 

 

   分断を哀しむモニュメント。

   十字架に赤いキプロスが,分断線上で左右に手と足元が磔に縫い付けられている。

   キリストの頭部に掲げられるべき「INRI」のかわりに,南北に分かれて50年と

   示されている。

   赤い色は,血の色だろうか,火を表わしているのか?


 南ニコシアはキプロス共和国の首都であり,大統領府を兼ねる大司教宮殿と隣接してキプロス大聖堂(マカリオス3世大司教)がある。旧市街には日曜日にもかかわらず人通りがみられ,自由な雰囲気が感じられたが,所々に分断を嘆き統一を希望するオブジェも多く見られました。旧市街の出口にはザハ・ハディットの曲線を多用した近代的な素晴らしい通りと空堀を活用した施設があります。私みたいなケチな土木屋から見ると,曲線が多用した設計は,断面形状が複雑で,型枠なども全て特別注文となり工費が嵩むだろうなぁという心配が先に立ちました(本当に小心ですねぇ,笑)。しかし,外観は素晴らしい!
 ニコシアの旧市街は町が小さいこと,緩衝区間で分断されているために南北の行き来に不便(パスポートを要する)で,緊張してゆっくり見ることが出来ませんでした。

 

    パディット女史の曲線を多用した橋の設計

 

              同上

 

  ニコシア新市街側の高層ビル(写真の左側にバディットの橋がある)

 

 キプロスの分断は根が深い。かつてはギリシャ人系住民が殆どだったが,オスマン帝国に占領されるとトルコ系住民が流入した。他国系住民の流入による紛争はバルカン半島のボスニアやコソボも同じ原因ですね。日本はキプロスは非常に遠く,紛争の原因を正確に理解することは困難です。しかし,大きくみて紛争の原因は2つあったのだろうと思います。一つは,トルコのギリシャへの深い不信です。二つはスエズ運河からの中継要衝としてのキプロスの植民地化を狙うイギリスの存在です。
 第一次世界大戦後オスマン帝国が滅亡すると,キプロスのギリシャ系住民とトルコ系住民はそれぞれはギリシャ,トルコへの同化を求めましたが,イギリスはキプロスを直轄植民地にしました。ギリシャは1830年の独立戦争でオスマン帝国から独立し,後オスマン帝国に支配されていた地域のギリシャ系住民の国を統合し,大ギリシャとする野望をもった。そして,オスマン帝国領に侵攻し,小アジア深く攻め込んだ。トルコ軍はこれを退けたが,不信感を強めた。
 第二次世界大戦後,キプロスの人口の8割を占めるギリシャ系住民はギリシャへの併合を要求。キプロスがギリシャ併合に進むことを恐れたイギリスは,トルコの危機をトルコに焚きつけた。1960年初代大統領マカリオス大司教はイギリスの意を受け,キプロスをイギリス連邦のキプロス共和国として独立させた。その際人口比率が少ないトルコ系住民に副大統領の席を用意する等して優遇した。しかし,その施策に不満なトルコ系住民は(キプロス正規軍の主体)はマカリオス大統領の施策に強く反対した。それをみたトルコ系住民は,昔のギリシャ併合事件に繋がるとして危機感を覚え,別途分離独立を目指した。それにトルコ軍もトルコ系住民保護を理由に介入し,内戦となった。
その後,ギリシャ軍事政権支援によるキプロスクーデター,クーデター軍と反クーデター軍(マカリオス派)の戦闘など混迷していった。以後,アメリカや国連が関与して複雑化し,現在に至った。

さて,次に直近の報道による情報を転記しました。
 トルコ軍の軍事侵攻から50年になるのにあわせ,ギリシャ系住民の多い南部とトルコ系住民の多い北部でそれぞれ式典が開かれました。ギリシャがキプロスの再統合を訴えているのに対し,トルコは北部の独立を主張していて,半世紀が経ったいまも対立が続いています。
 キプロス南部では,7月20日,ギリシャのミツォタキス首相が出席して追悼式典が開かれ,「ギリシャは常にキプロスの側に立つと約束する。私たちはキプロスが再統合されるまで闘いをやめない」などと述べ,分断の解消を訴えました。
一方,トルコだけが国家承認する北部でも,記念の式典が開かれ,トルコのエルドアン大統領は「50年前,トルコはトルコ系住民を見捨てないことを全世界に示した。北キプロスの承認と2国家解決に向けた努力を決意をもって続ける」と述べ,北キプロスの独立をあらためて主張しました。
侵攻から半世紀がたったいまも南北の再統合を訴えるギリシャと北部の独立を主張するトルコの間で溝は深く,対立が続いています。

   キレニア門から西に向かうロータリーに『連邦政府庁舎』がある。

   大小異なる人口比の自治州の連邦制を提案した時の名残の遺物か,

   その後もそうしようと努力しているのか?

GoogleMapによると,北ニコシアのキレニア門の前に,「連邦政府庁舎」という大きな建物がみられます。キプロス紛争停戦直後,ジュネーブで英国・ギリシャ・トルコの三国会議が開かれました。トルコはキプロスを2つに分ける連邦制を提案しましたが,ギリシャに拒否されました。もしかするとそれが正解だったのかもしれません。その後どうなったのか興味があるところです。両者旨くやればいいのにと思うのは,平和ボケした日本人の考える所でしょうか?

                                                                おわり