由緒書の不思議:鹿島神宮と香取神宮

 

 

 





 神宮の大鳥居に掲げられた由緒書には,御祭神とその由来を記されています。
鹿島神宮と香取神宮と息栖神社は,東国三社として知られ,昔から一括りの”仲良し”扱いがなされていますが,私が香取神宮を訪れた時,由緒書とは別に,日本書紀に描かれている記述が神宮境内に ”殊更強調”して示されていました。まるで仲が悪いというか強烈なライバル意識が感じられました。
そして,なぜワザワザ事を荒立てるようなことを抜き出しているのか? 調べてみました。

 

                 日本書記記述の拡大

なぜ,記述が記紀で逆になっているのか?
実際,「日本書紀」神代紀天孫降臨の条,一書の第二は唐突に「香取の神は斎主の神である」としている。斎部広成「古語拾遺」(大同元年,807),「先代旧事紀」は経津主神であると言って,香取神社の御由緒にもそうあるのに。「日本書紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」など正史に書かれる香取神宮・春日大社の祭神は,すべて「イハイヌシ」,「延喜式」の春日祝詞にも「香取坐伊波比主命」とある。以上藤原氏がかかわる正史や春日祭祝詞では「イハヒヌシ」とするのは,物部氏の氏の神「フツヌシ」は大和の石上神宮の祭神であるので,同一国内に藤原氏が新しく鹿島・香取神宮から勧請した氏の神を同じにしたくなかったためであろうというのが,大和岩雄説である。

 しかし,藤原氏の勢力下の9世紀になっても,斎部氏・物部氏は,香取の神を藤原・中臣用のタケミカヅチの神の斎主(格下)とするのを認めないし,それどころか,正史がタケミカヅチは鹿島の神と書いていることを承知で,『旧事本紀』中の「陰陽本紀」は,次のように記述している。

 

 『武甕槌之男神 亦の名建布津神。今常陸国の鹿島に坐す大神。即ち石上布都大神,是也。』

 

9世紀から10世紀には,タケミカヅチは天下公然の氏神となっていました。
  鹿島神(タケミカヅチ)と香取神(フツヌシではなくイハヒヌシ)の位階は,宝亀八年(777,藤原氏)以来常に鹿島神の方が上でした。承和三年(836年)になって香取神は鹿島神と一緒に正二位に昇り,承和六年(839年)両者は従一位になり,嘉祥三年(850年)にともに正一位に昇りつめた。
 このように鹿島神タケミカヅチが押しも押されぬ堂々たる「大神」になりおおせているとき,「先代旧事本記」はそのタケミカヅチは石上布都(フツ)大神であるとすっぱ抜いたのです。タケミカヅチが藤原・中臣の神でなく,物部の神であること,鹿島の神は本来タケミカヅチではなく,物部氏のフツヌシであったことをワザワザ主張しているのです。

 
そして,中央の中臣氏は国譲りにおいて活躍したように見せかけた武甕槌をどこかの時点で鹿島神宮の上にかぶせて,鹿島神宮を武甕槌神であるとした。そして,常陸国仲国の中臣と自分たちの中臣(藤原)氏とを重ね合わせ,両者が一族のように装った。そうした操作をしたうえで,常陸国の地から鹿島神鹿島神(武甕槌神)を奈良の春日の地に勧請し,春日大社の第一の祭神として祭り,自分たちの出自に箔を付けることが出来た。
藤原氏は,国譲りにおいて経津主神より武甕槌神を活躍させ,鹿島神宮の神を経津主神ではなく武甕槌神とし,その上で鹿島神宮の祭祀者を自分たち中臣(藤原)一族であるとした。
その証拠に「日本書記」の神武天皇即位前紀の高倉下の夢の話では,夢に出てきたタケミカヅチ(武甕雷神)は高倉下に以下のように命じたという。以下,大和岩雄。


  『予が剣,号を韴霊(フツノミタマ)と曰う,今当に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に献れ。』


  国譲りにおける経津主神・武甕槌神の登場のさせ方は,「高天原の司令神」・天照大神の出し方と対になっている。
  1)高皇産霊神と経津主神(+武甕槌神)(書紀本文)
      2)高皇産霊神・天照大神と経津主神・武甕槌神(一書の二)
      3)天照大神と武甕槌神・経津主神(順序が逆になっている,一書の一)
      4)天照大神と武甕槌神(天鳥船神古事記)

 

   

           鎌足神社

 

          鎌足神社境内地説明

さて,藤原鎌足を祀った鎌足神社がありますので,少し触れておきます。
藤原鎌足の出生地には2通りの説があります。その1が鹿島市下生(しものう)説,もう一つが奈良県高市郡大原説です。どちらも学会で論争されているが定説に至っていないのです。近年のTVドラマや小説では,仏教を巡る物部氏に従属していた中臣氏は物部氏の滅んだ時に衰退したとしている。その中臣氏に常陸国の中臣氏(後の中臣鹿島連氏)から幼名鎌子が養子になり,中臣鎌足となった説を用いている(「図説 鹿島の歴史 原始・古代編」)。

 常陸国は鹿島神宮の本来の経津主神を祀る多氏等,香島郡や筑波郡,信太郡,行方郡,茨城郡,那珂郡他,常陸国の殆どの郡司は饒速日命を祖に持つ歴とした物部一族でした。確かに養老年間(717~723)に成立した「常陸国風土記」神郡の高官が常陸中臣氏であったこと,「続日本紀」養老7年(723年11月16日の条)に鹿島神宮の宮司と鹿島郡の郡司が同族の常陸中臣氏から任命されています。そして常陸中臣氏(多氏の分家仲氏)がたまたま中央の中臣氏と同名の多氏の一族であったのです。それまで,中央の藤原系氏族が常陸国に勢力を布いた証拠はありません。

以上,香取神宮に掲げられた日本書記の(歯の奥物が挟まったような言い方)の記述について,
諸先学の見解を列挙しました。

そして,香取神宮の気持ちが理解できました。

主な参考文献:松崎健一郎「起源の物語『常陸国風土記』 第五章鹿島神宮の起源」