日本車の信頼性と成功

 「科学は公共の福祉にささげられた記念碑である。だから市民はだれも,その能力に応じて科学に貢献する義務がある。偉人が建物の最上階に運ばれ,それ以上の階を設計し建設するのに対して,普通の職工は低い階にちらばったり基礎の陰にかくれたりして,より聡明な工人たちが創り出したものを完全にすることに努力すべきである。」
  冒頭の言葉は,私が超二流論の勧めの基としているクーロン先生の言葉です。

  4月20日(土),私は茨城県の国道6号線で交通事故を起こしてしまいました。けがは大したことはなかったが(それでも頭部のCT,腹部のエコー検査をした),車の前部は大破して,相手には怪我を負わせました。一週間後の4月27日,相手の家に謝罪とお見舞いに行きました。そして,車を廃棄処分とすべく,事故現場近くのレッカー会社に事務手続きをお願いした。今後,免許返上も考えたが,田舎の町では車無しでは不便で生きていけない。だから今再度車を購入すべく方向で色々調べています。

 



 事故車の車種はMAZDAのコンパクトカーDEMIO(デミオ)です。スペイン語DE MIOは,”私のもの”という意味で気に入っていました。回転半径が小さく,山深い狭い道でも回転できるし,急カーブの高速走行では(タイヤの食い込みが強いので)横滑りしないのが気に入っていました。
 私が広島に赴任していた以前から,マツダ社は輸出用埠頭の調査設計等を発注頂いた大切なお客様でした。だから,私の勤務する会社は,社有車としてマツダ車を購入していました。私も個人的にDEMIOを使っていました。型式が2代目と3代目(事故車)です。現在4代目は名称がMAZDA2と変わり,少し気にくわないのです。
そんなこともあり,今,また後継車はマツダを考えてますが,年齢による免許返上時期と費用対効果も考えると,旧3代目DEMIOが捨てがたいのです。

  さて,我が国の製造業は戦後急激に発展してきました。製品の使いやすさと信頼性(故障しない)を向上させ評価を勝ち取ってきたのです。その基本は作っている現場技術者の能力の均質性と現場たたき上げのリーダーによるのではないかと思います。たとえば,本田宗一郎,松下幸之助等々。日本人は国の補助金におんぶしないで,自分たちで何とかしようという考えがあります。現場技術者は,自分の担当箇所が全体のなかでどういう位置にあるのか,もしラインがストップしたらどういう損害が発生するのかを考え乍ら働いている。これは,日本人の国民性と現場技術者均質性によるもので,個人主義の外国(欧米)ではできないらしい。
 一方,欧米では突出した天才やエリートが,革新的な発見や画期的な品開発を創造し,世界に提供してきました。車に例えれば,レシプロ内燃機関のエンジン(ロータリーも含む)を開発した欧州企業,その個々の仕組みやパーツの性能や信頼性向上に力を注ぐ日本。
欧米企業でも現場サイドでも同様な取り組みをしていると思うが,新しい機構の試作的なもの(型式ごとに蓄積のない新しい機構や部品)に拘るため,リコール時整備の対応が難しくなるという声が聞かれる。昔は(今も)日本車はデザインや機構が相も変わらずダサいと言われてきたが,見えない部分での改良を地道ながら継続的にやってきた。その蓄積が,日本車の信頼性に繋がっているものと思う。
 太平洋戦争での戦闘機エンジン開発では,日米は逆をやっていた。即ち,日本では帝国大学航空学科出たての若い技術者が最先端でも実績のない飛行機を設計をしたが,軍事行政では製造する熟練工を一般兵隊として招集し,製造には学徒,或いは徴用工が主力にならざるをえなかった。根本的な原因は,性能第一,信頼性・取扱い性を第二にした行政の不手際であったという。逆に,米国の場合長いエンジン開発の実績の上にたち,故障の少ない信頼性と取扱い性能,整備能力を重視して,戦地での稼働率アップを図っていた。これが航空戦力の差になったという。

 振り返って我々土木設計分野を俯瞰すると,画期的な設計法や解析法は高度な学歴を持ったエリート(大学の教授や博士)が開発し,我々現場技術者がその設計法や工法などを工学的な判断によって適切に採用しようとしている。しかし,現実にはその間にマニュアルというフローチャートが行政によって提供されていて,利用者(官側の担当技術者や民間の担当技術者)はあまり頭を使わなくても工法が選択できるようになっている。実務担当が高度な知識や実験を通して最適な解決方法を提案しても,フローにない工法は除外される場合が多い。こんなことをしていて,いいのだろうか?

製造業に関して一つ危惧していることがある。
ドイツ・フォルクスワーゲン社,最近では我が国のダイハツ,日野他にみられた不正問題である。ISO規格のISO9001によって,不正問題は発生しないと思われるが,実際はそうではない。ではISOは効果がないのであろうか? 実は現場での問題提起があっても,経営的な判断がその上にくることで,無力になっている現状がある? 例えば,極端な例ではあるが,製品の欠陥によって事故が起き犠牲者が出た場合,不良品を出さないようなシステムの欠陥の原因追及・会社のラインの全面的な再構築に掛かる巨大な費用と,個々の補償金総額の比較から,安い方の補償金で済ます安易な経営判断をしてしまう場合である。人命をこれ程軽視した判断はありえないが,実際にあったことなのである。この例は極端であるが,アメリカで起きたロケットの空中分解事故判断は次の通りでした。現場技術者はロケット本体を繋ぐOリングの温度上の欠陥を事前に知って上申したが,上級管理者はこれまで発射した実績があったと判断,社長はこの発射が失敗すると以後発注されない瀬戸際にあってことから,経営的に発射を判断してしまった。現場の技術者は欠陥を指摘したので責任はなかったかというというと,Oリングの欠陥は以前から気付いていたのに,それまで改善してなかったと問題化された。
 これほど大きな問題ではなくても,検査を合格するためにデータの改竄をする行為は悪質である。もし,貴方が現場にいた場合どうすればよかったか,考えてみてほしい。
原因の一端は余裕のない工期で,完全な成果主義を求めたことであることは間違いがない。

 最後にクーロン先生の言葉に帰りたい。
我が国は,クーロン先生の「普通の職工」に相当し,より聡明な工人たちが創り出したものをより完全にするように努力してきたし,それで,現在の日本車の成功があると思う。
                                                                     おわり