江戸時代の数学者(2):久留島義太(くるしまよしひろ)


 久留島義太は,関孝和,建部賢弘とならぶ大数学者です。
驚くことに,彼は我がいわき市平にあった内藤家磐城平藩に150石で召し抱えられていた藩の和算の師範でした。藩主の内藤政樹もまた和算の学者で俳人でした。平藩の江戸詰め和算師範としては,久留島の友人松永良弼(6両3人扶持)がいます。
代々内藤家の藩主は,数学者や文化人の後ろ盾になり,自身もたしなんでいました。
 平藩内藤家二代の忠興は数学者の今村仁兵衛知商を家臣にし,(沢村勘兵衛勝為の後)小川江筋事業(全長26㎞の農業用水)を継がせました。今村の数学家としての業績には,竪亥録,因帰算歌,日月会合算歌があります。
 内藤家三代藩主義泰(俳号風虎)~六代政樹の間には文化的な施策を行い,「印や・仏閣の修復と保護」「磐城風土記の編纂」「飯野文書・国魂文書等の古文書の保存や目録,複本の作成」と後世に多くの資料を残している。更に藩主自らも文芸作家の第一線に立っていた。「文学大名」「風流大名」といわれ多くの短歌,俳句の歌集,句を残した風虎,西山宗因に学び芭蕉とも交わり「芭蕉七部書」中に選ばれている優れた作品を残す露沾(内藤義英,政樹の後見人),神社・仏閣の修復・オゾンに尽くし名君と言われた露江(四代藩主義孝,正孝の叔父),沾城と号した和算家,俳人の六代政樹。四代義孝,五代義稠(よししげ),六代沾城(長男政樹)・露沾(次男)の元禄期に最盛期を迎えました。元禄八年(1695)に露沾がいわきに下って以来盛況を呈し、全国的に有名になったといいます(いわき市史)。内藤氏三代の俳壇につくした功は大きく評価され、多くの門弟の養成、俳書の出版事業等を行いました。

 


 内藤政樹は当代一流の和算家久留島義太・松永義弼を師とし,山路主住・建部弘ら多くの和算家とも交流をもって和算の世界に入りました。先の今村知商と関孝和,久留島義太,その父久留島義寄,内藤政樹の学流の関係は,野口他(2001)によると上図のようです。
 久留島義太の父親は村上左内義寄といい,備中松山城主水谷出羽守に仕え禄高二百石を賜っていたが,主家断絶後浪人となり江戸に出て,姓を久留島に改めた。中西正好に町見術を学び,これを大島喜侍に伝えた数学者であったという。

 数学者の加藤平左衛門(2009):「偉大なる和算家 久留島義太の業績」の「序」に,世界で最初に発見した法則についての学問的業績の指摘がされている。和算特有の用語が使われ,専門でない我々には難しい所があるが,以下に引用しする。
  『江戸時代に行われた数学は,天和,貞享の頃,算聖関孝和の出現によって,その様相を一変し,支那数学の伝統から全く逸脱して,我が国独自の形態を整えるようになった。即ち点算術の創設,行列式の発見,円里の発明,数論の整備等,どれをとっても皆画期的なものばかりである。この偉大なる関和孝の業績を継承してこれを整備発展せしめた人々は孝和の高弟荒木村英,建部賢明,賢弘兄弟及び賢弘の弟子中根元圭。村英の弟子松永良弼,及び松永の親友久留島義太である。かくして関流の基礎はこれ等碩学によって築きあげられたのである。奇才久留島義太はこのような時代に現れた大数学者である。
 彼は殆ど独力で数学を勉強して遂にその薀奧を極めたといわれる。極めて奇行に富んだ数学者で生前の著作は一冊もなく,今日伝わっているものは皆彼の門人の収録したものばかりである。そのためにこれらの内容は極めて乱雑で,一つの事項中に他の事項が混入されてあったり,マか同じことが幾度も重複して記入されてあったり,又断片のために何について述べたものか全く見当がつかないものさえあり,甚だわかりにくいものがあるが,彼の独創力の非凡なことは至る所に発揮されており,当時の数学界に燦然と光彩を放っておるのである。
 彼の「久氏弧背草」や「弧矢弦」にみえる弧背術は,関流の「乾坤之巻」と全く同じと言ってよい。彼は他人の書の内容をそのまま自分のものに取り入れるというような性格では絶対にないから,乾坤の巻は久留島のこれらの書をもとにして,彼と親交のあった関流二伝松永良弼等が協力して造ったものと考えられる。其の外,弧背に関する幾多の近式公式等も,久留島ならではと思われるものが少なくない。
 また和算の極大極小論は関孝和の開放翻変に見える適尽法に端を発し,建部賢弘や久留島義太によって漸くその体裁を整えるようになったものであるが,特に久留島の極背無尽式による解法のようなのは当時にあっては極めて困難なものであり,又同所にみえる超越方程式の無限級数反転法による解法の如きも極めて優れたものである。
 久氏遺構天之卷には彼の行列式に関する研究が見えている。そこにはLaplaceの展開法が用いられているが,後に菅野元健はこれによって遂に交式斜乗捷法(寛政十年,1798)を著して,詳しくLaplace の展開法を論じている。Laplaceがこの展開法を発表したのは1772年であるが,久留島の没年(1757)より考えて久留島の方が早くこの方法を発見しておることは明らかである。又関算後伝所収の久氏遺稿には注目すべき二問がみえる。その一つは整数N以下で,Nと互いに素なる整数が何個あるか,その個数を求める問題である。今この数をφ(N)と表せば,これは1760年にEulerが与えたφ関数に他ならぬ。他の一つは整数N以下の素数の数を決定する問題であるが,これも西洋ではLegendreが1798年に始めて彼と同様の結果を得ているが,これらはいずれも久留島より後である。
 その他,方垜(だ)術,角術,不知段数に関する諸公式の誘導法や,方陣の布列法特に立方陣の発見等は到底他の算家の追随を許さぬものばかりである。
 これらの業績は歴史的に見て,一人我が国のみならず,世界に向かっても誇りうるものである。誠に彼こそは算聖関孝和に次ぐ卓越せる我が国の数学者である。
 本書は彼の偉大なる遺書を現代数学によって詳しく解説したものである。これによって,この偉大なる我が国の数学者の業績を広く現代並びに後世に伝えて,以て銑鉄の偉業を偲ぶよすがともならば幸甚である。』

また,同書第一章には久留島義太伝の記述があるので引用紹介したい。
『ある日柳原に行き,路上で古本を商うものを見,そこで吉田光由の新編塵劫記をみつけ五十文で買った。これを読んでみるに一つも分からぬことはない。その上本の誤りを見つけた。そこで彼っは思うに算術というものは自ら知るべきもので,世の人がそれができないのは不審であるとて,境町に住居を設けて算術指南の表札を出して人を教えた。しかも塵劫記一冊だけで縦横自在に算法の本源を説いたという。所がある時,中根先生がその表札ようみて早速久留島に逢って算法について話し合ったところ,久留島は大いに懼れて遂には一言も云えなくなってしまった。そこえ久留島は直ちに表札を下して即刻算法指南をやめると言い出した。いかし中根は関夫子以来稀に見る才能のすぐれた人である。やめるべきではない。従来通り教授を続けられよといい,以後協力して大いに算法を談じ合おうと約して帰った。中根の去った後,久留島は門弟に語っていうには,今日中根丈右衛門という人が来て算法について話し合ったが,彼は誠に人間界の人ではない。俗にいう天狗のような人であったと。また中根は家に帰って門人に語るよう,今日久留島という人に会って関夫子の算法の大意を話したところ,彼は懼れて沈黙したが,しかし彼の算力の強いことは言葉に述べがたい。今日あのような人がいようとは思いもよらなかったと。
 又ある日両人が逢った時,中根が先日語った算法に話が及ぶと,久留島はすでにそれを解いていた。そこで中根は更に関流の算題を与えたが解けないものはなかったという。そして久留島は算法は設題が最も難しく,解くことはこれに次ぐものであると云ったという。
彼は朝に食はあっても夕の食の貯えがなく,夏の衣はあっても冬の衣は持っていないという生活で,家の入口には米櫃や銭箱がおいえあり,門人はそれを開いてみて,米銭をよく入れておいたという。しかしこれに対し礼を言うのでもなく,米銭が入れば避けに代えたと言われる。・・・(中略)。
 内藤侯に仕えて数学の相手をするにも,酒気がない時はシバシバ居眠りをし,酒気があれば大いに語るという有様であったから,侯に侍る時は常に酒を賜ったという。(中略)
 山路主任は中根元佳について数学を学んだが,中根が京都に帰ることになった時,中根は今後は久留島について学べと言った。そして山路は久留島の弟子になった。ところが久米島もまた九州の延岡の内藤侯の下に行くことになった。その時久留島は次の師とすべきは松永良弼であるといったため,また山路は松永について学ぶこととなり,かくして山路は松永の後次いで遂に関流三伝になった。(略)』

 



最後に,加藤平左衛門(2009):「偉大なる和算家 久留島義太の業績」には,多くの久米島業績を現代数学で解説した解題例が載っている。ここに最初の例を掲げたのでご覧いただきたい。

引用文献
  加藤平左衛門(2009):「偉大なる和算家 久留島義太の業績」(槇書店)
  野口・加藤・為替(2001):今村仁兵衛知商と内藤政樹
 佐藤・西田(2009):漢算ニ関スル 内藤造酒随筆抄録について(日本数学史学会)