赤いコートの少女:シンドラーのリスト(11)

 

『スピルバーグ その世界と人生』より



 映画「シンドラーのリスト」の衝撃は,初めて劇場で観た時から30年も経つのに,まだ私は心の中に影響を引きずっています。あれから縁の地を訪ねてきたけれど,映画に出てくる「赤いコートの少女」は,黒澤監督「天国と地獄」の「赤い煙突の煙」のように,黒白映画の中の単なる強調手法か?と浅慮にも思っていました。
 2015年発行リチャード・シッケル著(大久保・南波訳)『スピルバーグ その世界と人生』(西村書店 初版)に,監督本人の思いが語られていました。

 「シンドラーのリスト」は,僕の今迄の映画では初めてメッセージを込めて撮られたものなんだ,こんなことは二度と起こってはならない,というごく単純なメッセージだけれど,それはぼくの心の最も奥底にあるものなんだ。
 「シンドラーのリスト」を観てくれた多くの生存者にとって,この映画は彼等の心の扉にかかっていた鍵をあける働きがあったんだ。彼等は,ホロコーストで自分が経験したことは一度として子孫に語らず,胸に秘めていたのに,こう言うようになったんだ。『私が経験したことよりはまだましだよ。でも私が耐え忍んだことが,少しはわかってもらえるね』と。


 1982年の夏の朝,シド・シャインバードは,ニューヨーク・タイムズ載ったトマス・キニーリーの小説の書評を読み,その書評と本をスピルバーグに送って,『この物語は君が語るべきだ』と言い,その後映画化権を獲得しました。
  しかし,スピルバーグ監督は引き受けることに二の足を踏んで躊躇した。それは,ホロコースト問題に威厳を以て取り組むこと,しかも生き残った人々の記憶を貶めず,生き残れなかった人々を辱めないように,威厳をもって取り組むだけの,人間的成長も,監督としての技量も,心情的に深い部分の理解も,当時の自分は持ち合わせていなかった,からであったという。だから,原作本を他の監督たちに送り付け,交代してもらうよう懇願して周った,10年間も!。結果,すべて辞退された。その一人に,後に「戦場のピアニスト」を撮ったロマン・ポランスキーがいた。「知っておいて欲しいことがある。私にも語るべきホロコーストがあるのだ。私がクラクフのゲットーにいて,そこから脱走した時の,私自身の物語を語りたいから」といのが理由だった。余談ではあるが,かつて,私(遠藤)はワルシャワで,ガイドからポーランド出身の芸術家を問われたことがある。何人か有名な人の名をあげ,最後に「パン・タデウシュ物語」の映画監督のアンジェイ・ワイダと答えたところ,彼は胸を張って「戦場のピアニスト」のロマン・ポランスキー監督もいるよと諭されたことがありました。


 シンドラーの物語は,彼に救わられた人々を除いて全く知られていませんでした。
偶然原作者のキニーリーが立ち寄った皮製品の専門店のオーナーが,ポーランドでは当時ボルテク・ペファーベルグと名乗り,彼がオスカー・シンドラーの工場で働いていて強制収容所の死から生還できた一人だったことから,彼と寝食を共にして執筆に入って出来たものでした。
 スピルバーグ自身も祖父母,両親はいつも大虐殺(当時ホロコーストという言葉はなかった)の話をしていたという。等々の環境条件が加わり,結局スピルバーグは映画監督を引き受けることになりますが,オスカー・シンドラーという人物を中心にして,物語の世界を押し広げ,掘り下げて行った脚本に仕上げてもらった,という。
 シンドラーは映画史上最も謎めいた人物の一人である。映画は,リーアム・ニーソンが演じたように,彼は工場労働者のユダヤ人には反感などない人物で,正義感などもないプレイボーイ(酒と女と歌の人生を謳歌している)として登場する。人物描写は短い映画にありがちな「説明」を極力排除し,行動で表現している。その行動がいつ長いものに巻かれ路式の日和見主義に豹変するかハラハラする。

 映画「シンドラーのリスト」では,冒頭のロウソクの火と赤いコートの少女がカラーで表現されている。目立つ赤いコートの少女について,世の批評家達は,スピルバーグの得意とするお涙頂戴だと攻撃しました。私(遠藤)も少女に対しては同じ感じを抱き,たくさんの人が出てくる人波の動きを示すウキのような役目としか考えていませんでした。冒頭のロウソクのシーンについては,私は,最後のユダヤ人労働者の解放からカラーシーンに変わることから,ホロコーストの始まる前と解放後は,正常の生活環境だったことをカラーで表現していると思っていました。
しかし,スピルバーグによると,カラー化のシーンは欧州ユダヤ人殲滅に介入出来なかった連合国と鏡合せになっていて,この映画のエッセンスだといっているという。
 ユダヤ人問題は,この赤いコートを着て通りを歩いている少女くらい,誰の目にも明らかでした。それなのに誰もドイツの鉄道路線を爆破しようとはしなかったし,死体焼却炉の破壊のために全く手を打たれなかった。ヨーロッパのユダヤ民族殲滅という機械を,誰も食い止めようとはしなかった。これがこのシーンをカラーにすることにこめた僕のメッセージなんだ。当時,ホロコーストは非常に少数の非公開のグループの中だけで知られていた。おそらくルーズベルトもアイゼンハワーは知っていただろう,と。
  著者は言う,ヨーロッパのユダヤ民族の救済または環境改善は,アメリカ政府やユダヤ系アメリカ人の上層部において,合衆国の戦争目的に合致すると判断されなかった。アメリカは常に反ユダヤ的な国である。それほど酷くはないが,それでもはるか遠くの国のユダヤ人のために戦争をしようとはしまい。1つの小さな例を挙げれば,戦時中,ユダヤ人のためにほのめかしたのはたった3本のマイナーな映画だけだった。

そんな,「赤いコートの少女」のメッセージを,30年も経ってから知りました。
                                                          おわり