奉天会戦の先駆け:戊辰戦争白河口の戦い

  白河口の戦いは,薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍約700人と会津・仙台藩を中心とした奥羽越列藩同盟軍約2500人の戦いです。その勝敗は,慶應4年(1868)に起きた戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えました。
  戦いの発端は戊辰戦争勃発後,会津討伐を強要する新政府軍参謀世良修蔵らを仙台藩士が殺害したことを切っ掛けに東北諸藩は新政府軍に徹底抗戦することになりました。新政府領は維新後藩主がいなくなった白河城(小峰城)に入り,新政府の命令で近隣諸般が守備していました。ここに旧幕兵と会津藩が攻撃しました。守備兵は少数の上,一部の藩は会津藩に同情的で事前に退去していたため抗戦を断念し退去。城内の建物の多くは両軍の放火によりこの時失いました。その後,白河奪回を目指して新政府軍は栃木県側から進撃し,同盟軍の稲荷山陣地から正面突破を謀るが撃退され,敗北。

 

              戊辰150周年記念HP

            金子常規「幕末戊辰戦争」

      

                           昔の稲荷山陣地

 

 田圃の向こうに見える低い山が小丸山


 失敗に学び,新政府軍は奥州街道の小丸山に,砲兵隊(砲6門)主体,1中隊,2小隊の中央隊からなる白河入口正面への中央隊(対稲荷山陣地),砲3門と2中隊,1小隊,薩摩5番隊からなる左翼隊(対立石山陣地,新幹線新白河駅近くの半固結の火砕流火山灰に囲まれた絶壁からなる小陣地),砲1門,薩摩の二番隊と四番隊,右翼隊(対南湖北岸の雷神山堡塁)の三方に分れ,右翼隊は午前6時から,左翼隊は午前6時から,中央隊は8時から小丸山から砲六門で攻撃を開始しました。
 対する同盟軍は南湖北岸の雷神山~稲荷山~風神山の間に砲10門,兵士総勢2700人の陣を築き,立石山砲塁の間の低地から城下に入るのは風神山と立石山から挟撃できる陣で構えました(「戊辰白河口戦争記」による,以後戦争図)。東北諸藩からは続々と応援に駆け付け,兵力が3倍以上と圧倒していましたが,連携が弱く,新政府軍の巧みな作戦や用兵,新式武器の扱いの差等で会津藩・仙台藩を中心に多くの諸般兵が戦死(会津藩副総督横山主税,仙台藩首将坂本大炊等面だった部将)し,白河城も占領されました。
 以後同盟軍は100日間7度にわたる小峰城攻撃奪還を試みたが,連携不足や全軍指揮官不在,弾薬不足のため失敗し敗退しました。

 

 

        稲荷山下の戦死者の墓

 

  

       稲荷山にある戊辰戦争戦死者の(人名)碑 


  この連携の悪さは,各藩の意識の古さに現れたと思われます。戊辰戦争の終盤,仙台城で同盟軍の建て直しの会議が開かれた時,新撰組の土方歳三に指揮官依頼の話が出た時,土方歳三が生殺与奪の権限を条件に出したところ,各藩は拒否したという。元々「侍」は禄を呉れる藩主の命に従うものであって,藩主のいない武士は侍と呼ばない(浪人という)古い考え方に縛られていましたので,同盟軍は,言ってみれば烏合の衆で,危機に対する動きが遅く,指示もバラバラだったことは容易に想像がつくのです。
 戦争図を見ると,右翼の合戦坂から入った薩摩四番隊の奇襲隊は雷神山堡塁の側面を突き,城下に侵入しました。主力の稲荷山陣地は,雷神山堡塁や立石山砲塁の応援を出して手薄になったうえ,小丸山からの激しい砲撃を受け,薩摩藩の右翼隊により退路を絶たれて動揺し敗退した。雷神山や立石山の守備兵もはそれぞれ北方の阿武隈川方面に敗退。
  白河口の戦いの死者は同盟軍で700名,新政府軍で20名だったという。稲荷山公園に戦死者名の銅板の碑が立っているが,その多さに驚くばかりです(合掌)。

 この戦いに仙台藩士松川敏胤(後の日露戦争満州軍参謀)が参加していました。この白河口の戦いを経験を遼河,沙川,奉天の戦いに活かしました。奇しくも,満州軍の司令官は白河口戦争の東方奇襲隊薩摩四番隊の川村景明が鴨緑江軍司令官,立石山砲塁に斬り込んだ薩摩五番隊の野津道貫が野津第四軍司令官,稲荷山を総砲撃した薩摩二番砲隊長が大山巌は満州軍総司令官でした。だから,各軍司令官は松川参謀が立案した奉天戦の当初計画,その後の戦況の変化に,直ちに理解できたのです。

 

    

     松川敏胤参謀(陸軍大将)Wikipedia

 図1は奉天会戦の動きを示していますが,左右(東西)を逆にしてみると,白河口の戦いと似ていることに気が付きます。乃木三軍が薩摩四番隊に対応します。図2はロシア軍の配置を示していますが,満州軍を取り囲むように圧倒的多数のロシア軍が布陣し,攻撃が集中しやすくなっています。まるで,ナポレオンが負けたウォータールーの戦場配置みたいです。

 

 

 


 奉天の前には沙河と渾河が横たわり,両川の間は万宝山を始めとする要塞化した橋頭堡が横たわっていて,それらから激しい銃砲撃があって満州軍の主力黒木第一軍,奥第二軍,野津第四軍が身動きできなかったのが理解できます。これを乃木第三軍が西側から長駆攻め入ったのは奇跡みたいなものです。当然ながら途中のロシア軍第二軍による激しい側面攻撃や後に展開した総予備軍による激しい攻撃によって,何度も壊滅の危機に会いながら,満州軍の後続部隊の遅延に耐え,奉天背後をつく鉄嶺行の鉄道直近まで攻めあがったことは驚きです。
 乃木三軍は予備役と後備役(予備役を再度徴用した予備役)からなり,装備も旧式で貧弱な装備の陽動的(枯れ木も山の賑わい)な位置づけにありました。戦場は水物で戦況は刻刻変化します。当初の作戦は左右両翼が前に押し出し,ロシア軍がその対策に軍を移動させたら,手薄になった中央を突破する両翼包囲計画でした。しかし,満州軍の前面の奉天側の高台嶺,沙河保,万宝山は堅固な要塞化した陣地でびくともしない。そこから激しい銃撃を満州軍に加えたため,右翼の黒木第一軍・鴨緑江軍,左翼の奥第二軍は身動きが取れず。乃木三軍は最左翼からロシア第二軍の側面を突き,激しい混戦の中銃撃を受けながら,奉天に向かったのです。松川参謀は急遽乃木軍を左翼の主力に格上げ,乱れたロシア第二軍に向かって奥軍の師団に乃木軍の支援に向かわせた。その勢いとを見てクロパトキンは乃木軍を満州軍の本体かと見て主力の万宝山等の要塞から兵を移動させました(図の赤→)。後続部隊も激しい抵抗に会い,乃木軍は壊滅の危機を何度か迎えました。
 乃木第三軍が奉天の西13㎞程まで達したのは,3月5日だったといいます。秋山支隊お前に出て,乃木三軍が鉄嶺に続く鉄道を分断する構えを見せたのをみて,クロパトキンは奉天の退路を塞がれることを恐れ,急いでロシア軍を退却させました。3月7日ロシア軍の主力が乃木軍に当たるため移動して初めて前に進むことが出来,奉天間近まで攻めのぼることが出来た。
 乃木軍の流れは,白河口の戦いにおける薩摩軍奇襲隊の動きに似ているように思えます。

 

  

   松川家の墓の墓誌 36に敏胤,敏胤室


12月24日のクリスマス前日,私は仙台市営の葛岡霊園に行き,松川敏胤参謀陸軍大将のお墓を訪ねました。旧墓から市営墓地に移したので新しいお墓の墓誌には,命日が「戊辰」の昭和3年3月7日70歳とありました。

お人柄を示すのか,「陸軍大将」という字はありませんでした。
                                                              おわり