上野三碑とキリスト教伝来:多胡碑の羊太夫

 

           多胡碑の位置(他,金井沢碑,山上碑)
 

 群馬県高崎市南西の利根川右支流鏑川~烏川にかけた地域には,世界記憶遺産の多胡碑,金井沢碑,山上碑があります。そして,群馬・栃木両県は昔から渡来人の国だったという記録があります。「上・下毛国」という国名や,吉井郡の新羅伝説,多胡碑の主人公『多胡羊大夫』の「胡」,「羊」の漢字になごりが残っています。

しかし,羊太夫がキリスト教徒とする説には大いに疑問があるというのが,この内容です。

 

             多胡碑の覆堂

 

     
      多胡碑(本物)       多胡碑(レプリカ)

 多胡碑は,上野国として14番目の郡として多胡郡が設置されたことを記念して建てられたものです。多胡碑の碑文は,奈良時代の和銅4年(711),周囲の郡から戸数を割いて多胡郡を置いたという「 続日本紀 」記述に一致します。
 『弁官符(おお)す。上野国の片岡郡,緑野郡,甘良郡并せて三郡の内,三百戸を郡となし,羊に給いて多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王,左太臣・正二位石上尊,右太臣・正二位藤原尊』

 

         多胡碑の説明

 一方,平戸藩主松浦静山著の「甲子夜話」に伝聞ながら,『先年上野の国,多胡羊大夫の碑の傍らにある石室を掘り出した中から古銅券(銅板)が出た。その表題の字が「JNRI」となっている。ある人がのちオランダ書「コルネーキ」で調べた。するとイエス処刑の図の上に,この四字が書かれているのが分かった。しかしその意味について蛮字に通じた人に尋ねてみたのだがよくわからなかった。』とありました。さらに,松浦静山は「羊大夫」の墓から十字架も見つかったことを示している。上記の銅券の出た「石室」とはおそらく古墳の石室と推定される。

 

          多胡村古墳(羊太夫の墓?)

 

           多胡村古墳の説明

「JNRI」は「INRI」の読み誤りか? ラテン語「Iesus Nazarenus Rex Indaeorum」で,後の絵師が頭文字だけ省略して書いたもの。日本語では「ユダヤ人の王,ナザレのイエス」と訳す。天草の西彼町にある隠れキリシタン墓碑には,「INRI」と刻まれているものがあることから類推すると,羊大夫はキリスト教徒(景教徒)あるいは信者であろうか。
 しかし,敬虔なキリスト教関係者なら「INRI」などと略して書くなどと考えにくい。まして「JNRI」と書き間違えることがあろうか? むしろ「INRI」の真意を知らない日本人なら読みにくい字で書かれた「I」を「J」と意味も分からず書いてしまうであろう。
 「INRI」という略字はいつから使われたか? 
色々磔刑絵を調べると,15世紀からルネッサンス期の画家に多く描かれ,「Iesus Nazarenus Rex Indaeorum」と「INRI」と両方の絵がある。それ以前はモザイク絵やフレスコ画で磔刑図はないように見える。もしそうなら,石室で発見された銅板は,羊太夫の埋葬時に埋められたのではないことになる。
 キリシタンの宣教師が渡ってきた戦国期(欧州のルネッサンス期)以降,禁教の江戸時代以前に,誰かが十字架と一緒に銅板を埋めたことになろう。在処が分からない石室にワザワザ入れるということを誰ができるであろうか? 謎である。それとも私の調べが足りなく,奈良時代以前にも「INRI」が西洋で使われていたのであろうか? 
 もう一つ,唐にネストリウス派キリスト教が伝わったのが,630年半ばであるが,その後(迫害にあい)廃れたという。それが羊太夫が活躍した時代,おそらく和銅4年(711)以前(白村江の戦~奈良時代の初め頃)に日本に伝わった,あるいは,本人がキリスト教徒だったことになる。景教が日本に伝わったのが平安時代(秦氏の活躍)という通説が間違っているのであろうか。
 世界遺産の登録に際しどういう審査をしているのであろうか? 
「INRI」が奈良時代以前に使われていたことがある銅板だと認定したから,登録の認証がされたのでしょうか? 信じられません。
  いずれにしても,羊太夫がキリスト教徒なら,「INRI」が使われた時期が羊太夫以前であることを証明する必要があります。

                                                                おわり