東日流三郡誌(1):卑弥呼と,法然の弟子金光上人の場合 

 

          

 卑弥呼という人は,どうも以前のような老婆のイメージからほど遠い,女ざかりの人だったらしい(古田武彦著『卑弥呼』,ミネルヴァ書房)。その根拠は,魏志倭人伝によると「年すでに長大,夫婿(ふせい)無く,男弟有り,佐けて国を治む」とあります。従来字面から根拠もなしに,老婆として考えられていました。しかし,「三国志」に「年すでに長大」の事例を見ると,用例が多くあり,例えば「丕の,業を継ぐに及ぶや,年既に長大」とあり,当時34才だった魏の初代文帝(曹丕)が後を継いだと記されてあります。魏の歴史官僚だった陳寿が,目の前にいる天子の年齢を”正史”で間違うはずはないでしょう。とすると,卑弥呼の年齢は女ざかりの年頃となります。
 卑弥呼について,どこで生まれたか,どこでそだてられたか,どのような道を歩んでいたのか,古事記や日本書紀は勿論風土記でも一切記録がありませんでした。しかし,『東日流(内外)三郡誌』には記述されています。しかしこの書は「学者」から排除されてきました。ここでは,『東日流(内外)三郡誌』に描かれている卑弥呼について古田の記述ををもとに紹介するとともに,偽書と批判をされている『東日流(内外)三郡誌』の内容について,私なりに確かめた情報を加えました。

 

          

          「東日流三郡誌」寛政原本(秋田考季)

なぜ偽書と非難されているのか?
江戸寛政時代に古来から東北地方に伝わる文書を,秋田孝季と和田長三郎が書写蒐集しました。その原本が時代とともに劣化し失われるのを見かね,和田家が代々写本を書き継いできたのが『東日流(内外)三郡誌』です。しかしその内容が従来の通説と異なるために,写本時点で書き加えたとか,捏造したという非難なのです。しかし,その写本があまりに膨大で内容も多岐かつ高度な専門にわたるため,そのような知識があるなら,わざわざ捏造するより,創作した方がテットり早いのではないか?という常識的な疑問があったのです。最終的に当時の原本が発見されたことにより,この論争が決着されたかに見えました。しかし,非難者の論拠が悉く明快に論駁されたに拘わらず,非難者達は経緯を知らない一般読者に向け,なおも偽書と言い続けているのです。

 『東日流(内外)三郡誌』の寛政六年(1994)7月1日に,卑弥呼の消息について物部蔵人が書いた文章が載っています。
『築紫にヒミカ(原著カタカナのまま)という霊媒師あり。幼にして伊川に生るを知りて,父母を尋ね,宇佐に暮らし,霊媒を天授し,衆を寄せ大元に移り,八女,山門を巡脚し,更に末廬,伊都,奴に巡り,千人の信徒を従ふ。信仰の神は西王母にして亀堂金母,東王父を祀りぬ』『されば,ヒミカの神たる西王母とは支那伝説の仙女たり。(略)西王母は東王父の妻なり。』『築紫のヒミカは己が住居を耶摩堆(”摩”の手は非の字,耶摩臺)と称し,築紫は磐井山門とせる招殿たり。招殿の主磐井大王にて,加志牟の妻たりと曰う。』
『磐井大王,ヒミカを耶摩堆に帰さざるに依りて,倭勢,築紫に攻め,磐井大王を討ち取り,ヒミカを探せど,行方知れずと曰う。』『我が丑寅日本国は築紫との往来ありき,築紫にては磐井一族ありて,築後一帯に覇をなせる大王たり。』
物部蔵人は,『依って,これを邪馬壹(やまいち)と称し,耶摩堆と称し,魏の倭人伝に記述ありぬ。』と結論し,『築紫より来る霊媒師,その名は卑弥呼と称す。盲目の女なり。(略)』と結んだ。
 ここで注目することがあります。
1)「邪馬壹国」としているのは,倭人伝の七万戸の大国の呼び名,「邪馬臺国」つぃているのは,「大倭王の居所」で,いわば,東京都と皇居のような関係にある。


2)ヒミカの祀る「穆(ぼく)天子伝」西王母と東王父は,西晋の陳寿の時代に発見された書で,その行文と思想は陳寿の三国志に深い影響を与えた。
 

3)だから,従来の「邪馬台国」論者のように,「邪馬壹国」を「邪馬台国」と勝手に手直しして,物を考えるのは不当である。原著は「邪馬壹国」なのだから,その意味をそのまま追及すべきである。陳寿は勝手に誇大妄想(魏志倭人伝の距離が7倍も長い)とか,勝手に名前を変えるとか,相手が悪いとしたり,今の基準で決めつけてはいけない。

  私は捏造かどうか,可能な1つの指標でチェックしてみようと思いました。
それは,『東日流(内外)三郡誌』「金光伝」にある,「法然の弟子金光上人が佐渡に流されている親鸞に会いに行った」という内容です。後鳥羽上皇によって遠流されたのが,通説では越後だと言われているのに,「金光伝」では佐渡となっていて,出鱈目だというのです。私は確かめに青森県浪岡市に行ったことがあります。
 なぜ行ったか?


 

 

 親鸞上人は,最近まで実在しない人?というのが学界では通説でした。それなら,何で実在しないとされていた親鸞に関する捏造が出来たのか? ましてや,知名度の低い法然の弟子金光上人が,なぜ架空の人と思われていた親鸞に会いに佐渡に行ったという,そんな細かいことまで,和田家の写本物が捏造することがことができたか? そもそも,佐渡行きは正しいのか?,一次資料の教行信証の佐渡説の方が,承久の変後(鎌倉からみたら佐渡は遠流にあたらない)の二次資料歎異抄より合理性があります。
 事実,「金光伝」で佐渡の流されたのは綽空とのみ記され,和田喜三郎氏はそれが親鸞の別名だとは知らなかったのです。佐渡に流されたのは日蓮だと思っていたと告白(新・古代学第1集51ページ)。
 以上のことから,私は信じられない不思議なことだと思い,まず,実在の人か確かめようとしたのです。

 

        

 

        

 

        


 結果,青森県五所川原では浄土宗の聖人として尊敬されていたことを確認しました。
これは,金光上人が会いに行った佐渡が正しく,即ち捏造の非難は当たらないということを表わします。
                                                              おわり