「日本三大祟り」:堅通法師

 日本の恐怖の祟り話には,番町皿屋敷,四谷怪談と,堅通法師の「惣(宗)右衛門たたり」があります。我が奥州泉藩領下川村(いわき市泉町下川)に,三番目の「惣(宗)右衛門たたり」が伝わっています(「下川の郷土史」)。堅通法師の墓は,今月最初に投稿(2023.7.09)した映画スター鈴木傳明の墓の約45m西にあります。今も祟りを鎮め慰めるために,地元の有志と石材店によって,古い墓石を囲むように,真新しい花崗岩の墓域が整備されています。
 下川地区は江戸時代,泉藩の米や石炭の積み出しで栄えていました。豪農や富豪が多く住んでいたため,元々はこの地区が藩陣屋の候補地でした。この話は宝永年間(1710年頃),そういう豪家に騙された死んでいった,貧しくも真面目な法師の物語なのです。

 

                               堅通法師の墓

 

                

            墓石拡大と395年祭木碑  


  「下川の郷土史」による物語は次のようです。
仙台藩亘理の郷(現宮城県亘理郡亘理町)にある寺で修行していた弟子堅通が,久しく修行した日,何か心に考えている様子。上人がどうしたのかと問えば,「はい,私は名僧となって仏事にお仕え申したい。それが亦恩師へのなさねばならない道と信じ,日々修行に専念してまいりました」というのです。上人は「おお偉い考えよ,拙僧も同じ考えでな。だが,僧位は京都へ上らなければ賜れない。道程凡そ400里,従って旅費も亦莫大。貯蓄を決意して辛うじて十両,旅費には足りようか? しかし,第一体が老朽で400里の修行歩行に自信が持てない。堅通,お前が今日から心がけても拙僧の二の舞ではなかろうか。しかし心底の程誠に高潔,かつ尊い。拙僧の念願貯蓄の金子を堅通に献じよう。早速決意出発されて念願に猛進されよ!」。そして「男子立志して郷関を出て,業成り名遂げて帰還,拙僧青年時の燃ゆる希望を達してくれ。これ拙僧終生の願いじゃ」と金子十両を堅通に手渡し,懇ろに両手をついた。堅通俄然噴き出す熱涙に物をも見えず,血湧き肉踊るの喜び,されど恩師の両手をついて頭を垂れたその姿,嗚呼何と恐縮辱けない。心は猛に逸れども暫し無言の主従の握手。そして早や千里の一歩を踏み出した。

 走り掛かった此処は下川の宿。腰を下ろして一休み,通りかかった一人の貴人が「お見受け申せば旅の御僧と覚しく」と声をかける。「ハイ,私は仙台より京都へ上る道すがらです」「さようでございますか,私は下川の住人です。ここ下川には七ケ寺もありますが住職としてなく,願わくば止まって修行の傍ら子弟の教鞭等お執り頂ければ無上の幸福でございます。ああもう黄昏,お疲れでしょう。今宵は御泊りなされては。」「ハイ,それではお言葉に甘え宿らせて頂きます。」となった。

  来てみれば門厳しく,内にイロハの蔵構,醸造蔵等の他,7,8頭の厨連なり,古木揃いの大庭園住居,高楼にして男女使用人数知れず。実はこの人,近隣稀に見る豪家酒造業江尻宗右衛門様。庄屋を勤められたともいわれた偉人でした。案内されて奥へ通され,よもやまの話の問答の中で,主従の決別の話,法師の念願果たす迄は一日として私の身ではございませんとの決意等を話した。「けれどこのような御世話に相成りましたが,私はその道未修業の者,御意に従い当座のお勤めをさせて頂きましょう。」「これは亦有難いお返事」となり,早速各方面に連絡を取り運び,明日から羽黒山長寿院長命寺の住職として,亦子弟所望の14,15人の教鞭をも兼ねることになった。子弟の中には惣右衛門の長男惣一郎もいた。そして気分の落ち着いて早くも二十日も過ぎた。
 しかし,恩師の両手をついたあの姿が忘れられない。大伽藍に一人体の大金所持の心配苦労,あの豪家の親切なご主人,あの方ならば一時預かってもらえるのでは?と思い定め,一日訪ねた。「実は出郷の際恩師から頂いた多年蓄積苦労の大金十両を,昇格用として持参しております。一人住まいにて物騒でございます。お宅様なら御預かり願いできようかと只今持ってまいりました。お預かり方お願い申し上げます。」と頼んだ。惣右衛門は「堅通様,折角のお申し出確かにお預かり致しましょう。」ということで,早速金十両の預かり証文を認めて手渡された。法師は安心して引き返し,日々勤めに専念された。
 そうして光陰矢の如く早二年。法師二十二才の春,一日千秋の法師の胸中は,寝ても眠れない恩師の姿,繰り返し思い出しては,いよいよ上京昇格を決意した。直ちに惣右衛門宅を訪れ,「君臨天与の御世話になりました。当座のご奉公お約束申し出まして早二年,郷里の恩師の約束も之果たさなければなりません。何れ上京その暁には貴方の御賜恩は忘れません。就きましてはお預かり願いました修行用の金子頂きに参りました。何卒お返し方お願い申し上げます。」
すると「何だねお金お金,私は知らないよ」との返事。堅通は驚き,「あれから二年になります。昇格用の資金として,お宅の御座敷に於いてお預かりを願い,預かり証迄お墨付きを頂きました。恩師積年苦労の大金でございます。何卒お返し戻し願い申し上げます。」と懇願した。「何,お墨付き! そんなもの書いた覚えないよ」
 さぁ大変,これはやられたかと,何れ良く探して亦参りますと引き返して帰り,先程調べた時には気もいそいそしていたので,見つからなかったかも?とよく調べたが,終日探しても見当たらない。明朝また訪問したいと懇に言上申し上げたが,知らないとの一点張り。強いて亦申し上げたが木鼻の挨拶。そして証文があるなら出しなさいと強弁した。
 堅通は寝ても眠れなかった。昨夜考えた通りだ。一昨年七夕の虫干しの日に,法師は急用のため,惣一郎に後始末を頼んで他出した。惣一郎が片付けているうちに,父の名前が書いてある証文を見つけた。昼食時になって家に帰り父に話すと,持って来いと言いつけられ,寺に戻り密に証文を懐中にして夕刻家に帰り,父に渡した。父は座敷の火鉢でその証文を焼いてしまった。
 斯様な策謀と気付いた法師は断腸の思い,一身を賭して彼の汚行を成敗せねばならないと直ちに訴状を認め奉行所に提出した。奉行所では良く審議したが立証するものがない。預かり証は惣一郎の手に掛かり父に焼かれてしまったのだ。証文を書いた時は,堅通と惣右衛門のただ二人だったから他に誰も知る者がいない。遂に証拠不十分で敗訴となった。
 ここにおいて法師の鬱憤は断腸の思いとなり,自己修業の霊験に依存する決死の願いの他余儀なくなった。白装束に網代笠に身を纏い,丈杖ついて高山の峰々を逢い,谷々は水を浴び,神社仏閣隅なく祈願した。この二ヶ年の月日の死を覚悟しての法師の折伏修行の山また山,谷また谷の険しい路は,道行きかう人の心も肌寒く,遂に進退極り歩行困難となって,ついに「チンコロ山」の一堂に立て籠り絶食断水,何と座頭の身とはなられた。神よ仏よ救い給え。
 この法師の九死一生の時を知った江尻平右衛門,粥を焚きて献上された。しかし,折角の親切誠に有難いが,死を決しての祈願です。只願わくば此の鐘の音の消えたる時は堅通死せりと知り,何処へなりと埋めてくれ一言。その主の体は白装束がチギレチギレ,頭髪はボウボウ,頬骨高く目は引っ込み,其の眼光の怖ろしさは何物をも射捕めうる威力ではなかったろうかという。此の頃地域の人々は,黄昏時には風生臭く気味悪くて,全然人通りはなかったと言われている。
遂に法師は帰らぬ人となってしまった。
遺体は江尻平右衛門によって納められたであろうか。
一方惣右衛門は,法師の死後俄かに高熱に冒され,薬石効なく短日にして死亡。妻も高熱で死亡。惣一郎もその後逝き,一家全員死亡したと聞く。使用人も怖れをなして我先にて出てしまったと,女中の誰かが伝えたであろうか。
一説に惣右衛門の三兄弟の内,平右衛門だけは祟らなかったという。最近まで堅通法師の月命日には,平右衛門の子孫や近所の方達(神田香織さんの実家他)がお参りしていたという。
漢方煎じ薬の鉤つるし上から蛇がズルズル降りてきて鍋の薬をペロペロと皆飲んでしまうとか,一族皆薬の効力は無かったであろうか,かくして人は皆亡び,従って馬は死し,「イロハ」蔵は倒壊。気味悪くて誰も訪れず。無人の家として雑草繁茂して明治を迎えた頃は,凡そ二百年位になったでしょうか。誰かが切り開いたのか,残っていた庭の松の木が余りにも枝生えが良いのでこれを売った所,松の木にも法命がかかっていたのでしょうか,そのお宅にも大事が起こったということです。そして点々した家,皆不思議到来,遂にお寺に植え納められたと伝えられます。
尚,堅通法師の碑は明治三十四年(郷土史には二百有余年とあるが,1710年頃の話とすると二百弱年後であろうか? 計算が合わない),当時の老人達が語り合わせて法師の霊を慰めようと,建てられたものであろうか。今思えば誠に迷信また恐怖の時代だったものです。誰もが知らなかった。
法師の御遺骨は法師の碑の三尺前の木碑の元に,納められたということです。
そして地元ではこの祟り話を口にするのは,今になっても憚られています。
                                おわり