大川周明:興亜の知の巨人

 

              

              東京市外大崎の自宅書斎にて 東亜経済調査局理事長当時

      (昭和4年43歳,「大川周明旧蔵書目録」より) 

              酒田市上空

          中央図書館と中町市庁舎,海晏寺


             光丘文庫(光丘公園)

             酒田市中央図書館


 酒田市の光丘公園にある光丘文庫(こうきゅうぶんこ)は,旧本間家が蒐集した貴重な史料が多数収蔵された古式ゆかしい建物です。文庫の史料は,現在酒田市役所中町庁舎に保存されています。朝9時に開館する駅前の酒田市中央図書館に行き,係員に案内のチラシで中町庁舎内の光丘文庫を教えてもらいました。普通の市の図書館は10時開館なのに,酒田は9時なのです。その心意気がとても好ましく思いました。
 それまで中央図書館に行くのに市内の地図もなく,車で彼方此方彷徨いました。私みたいに太平洋岸出身の者は,朝日が出るのは太平洋側という本能があります。ところが,酒田は朝日が出る東は山側であるうえ,酒田の港が(西の日本海にあるのではなく)南の最上川にあるということが,私の方向感覚を一層狂わせたのです。何度も同じ通りを往復したか分りません。
 中町庁舎内の光丘文庫では,大川博士著「清川八郎」,生誕地関係の史料閲覧,若干のコピーを願い,酒田市立図書館発行『酒田市立光丘文庫所蔵 大川周明旧蔵書目録』を購入しました。
そして生誕地と顕彰碑を訪ねたのです。

 

               豊受神社

 

 

     

           大川周明博士生誕地碑      

 生誕地碑は市内の北西,日本海東北自動車道の酒田みなとIC近く,大字西荒瀬字知和里部落の豊受神社境内にあります。碑文は旧藩主酒井忠明氏筆によるもので,裏には生誕地の住所が刻まれてあります。住所は丁度神社の南約200m足らずの処ですが,住宅地図によると知和里には大川姓がもはや見当たりません。部落は,海(西)側に砂丘の松林,東側は田圃の中を走る高速道路の間の旧道を挟んで,農家が立ち並び,普通の田園地帯の風景です。こういう場所から日本国を動かす人が出たのに驚きます。

 

     

          日枝神社 鳥居の向こうは神随門

             大川周明博士顕彰碑    

 顕彰碑は光丘公園の日枝神社の鳥居向かって右裏,随神門に向かって右前に在ります。酒田市立図書館発行の「酒田市立光丘文庫所蔵 大川周明旧蔵書目録」には,冒頭の大川周明43歳の写真と,顕彰碑の原文と読みが載っています。昭和33年2月15日,東京青山墓地で行われた葬儀の日,土屋竹雨久泰が大川博士の霊前に捧げた弔辞を顕彰碑としたものです。
題字は,旧鶴岡藩17代当主  酒井忠明氏。揮毫は,土屋竹雨久泰(きゅうたい)氏。

土屋氏は明治20年鶴岡に生まれ,荘内中学校,第二高等学校,東京帝国大学に学ぶ。漢詩は当代第一。書家として亦一家をなす。長年大東文化大学学長として東洋文化の振興に寄与す。昭和33年11月,71歳にて逝去。
大川周明没後10年祭は酒田市中町の海晏寺(酒田市中町庁舎の近く)で行われたそうです。

以下,顕彰碑の内容を載せました。原文,読み下し文は,「大川周明旧蔵書目録」にょる。
                                                                                                           

読み下し文             意  味   (私の勝手な解釈)                                   
哀輓三章                                     哀しい死者を弔う三章  
                                                                           
識見文章,共に絶倫                       識見文章,共に絶倫        
多年興亜経綸を展ぶ。                    多年興亜のために経綸を展開                
痩躯六尺,英雄漢。                       痩せた六尺の体の英雄漢。        
睥睨す。東西古今の人。               古今東西の人を睥睨した。        
幾度か身を投ず,囹圄の中。           何度か獄舎に身を投じた。           
筆は秋霜を挟み,心は烈日。           筆致は秋霜の様に厳しかったが, 
                                    心は熱い日中のようだった。
危言厄に遭うも道何ぞ窮せん。        危い言で厄に遭っても何も道に窮せず。
果然頽世,清風を起す。                  案の定,頽廃した世に清風を起こした。
立言何ぞ遜れん,立朝の勲。        立言に何で逃がれようか,国に貢献勲をなした。
時,艱難にして嗟す,君を喪うを。   今,君を失った苦しみに溜息がでる。        
渺渺たる魂兮,招けども返らず。       広く魂を招けども返ってこない。       
哀歌空しく対す,曇天の雲。             哀歌に空しく対する,曇天の雲が。       
哀輓                                              哀しい弔
大川博士周明君                             大川博士周明君                                                 

 

                                                     

               古民家山十

 

   愛川町中津の自宅は,豪農熊坂当兵衛の屋敷(古民家山十:やまじゅう)だったものを買い取ったものとのことで,大川博士はここで最期を迎えたという。この愛川町は鎌倉時代大江広元(後の毛利家の先祖)の領地だったところでした。この町を流れる中津川上流に宮ケ瀬ダムがあります。高さ156m,堤頂400mの重力式大ダムです。以前,本ブログで紹介した竹村公太郎氏が若年時にダム所長を勤めていました(2021.7.23 宝暦治水とデ・レーケ,長良川河口堰問題)。宮が瀬ダムでは,当時本邦初で最先端のRCDコンクリート(ブルドーザーでコンクリートを敷き均す)工法で施工されていました。彼はその開発をリードするばかりでなく,ダム完成後の環境問題とレクリエーション利用に対し,意欲的に取り組んでいました。
 私も宮ケ瀬ダム湖を通る伊勢原断層の追跡調査をしていたことがあります。伊勢原断層は関東大震災の時動いたのではないかといわれる断層で,その延長は伊勢原市から清川村(奇しくも山形県の清川村と同じ名前です)を通り,宮ケ瀬ダム湖の奥にある鳥居原付近が北端とされていました。
調査した当時(大川の死後17,8年後の頃),大川周明の家が中津にあったとは知りませんでした。

 大川周明博士に身近に接していた原田幸吉によると,大川の日支戦即時解決案というのは,上海戦後,満州国の承認という一項を条件に,一兵残らず内地に引き上げるというもので,これによって蒋介石に日本が領土的野心のないことを了解させ,更に全世界に表明しようとしたものであったというのです。
博士がこの案を東条陸相に献策したところ,東条は『そんなことをすれば靖国の英霊にあいすまぬ』と聞き入れず,博士は『靖国の英霊は神様だから貴公のようなわからぬことは云わぬ』と面罵したが,権力の座を握る東条に抗することはできなかったという(中略)。
後年,東京軍事裁判の市ヶ谷法廷で,後ろの席から東条の禿げ頭をぴしゃりと叩いた。

大川の胸裡に去来したものは何であったのでしょうか。
大川塾の一期生の大塚寿男氏は,東条が自殺を図った際に大川の書簡を枕頭に置いたのは,東条の悔悟の念を表しているのではないかと指摘しています。
その後東京大空襲が始まって制空権を失った頃でも,大川は危険を冒して博多から上海に3度も飛び,日中間の不幸な戦争を終わらせようと真剣に考え行動していたといいます。

 大川は第一回の東京裁判公判の行動で精神障害と診断され,巣鴨拘置所から米軍が管理していた同愛病院に移されました。その後幾つかの病院に転院させられ,昭和22年2月綿密な精神鑑定を受けた。診断の結果完全に正常化したことが証明されたにも拘わらず,そして本人が自ら弁護する能力があり裁判に耐えうると力説しているのに,なぜか裁判は不起訴処分になりました。
彼の7月3日の日記には,GHQから回復しても退院不許可の通知があり,裁判のすむまで狂人扱いされることとなる,とある。仮病だったのではないかという『世間の嘲笑,悪罵,憐憫乃至同情』に対し,何も申し開きをしなかった。
 東京裁判の酒田に設けられた出張法廷に証人として出廷し,アメリカ側関係者を狼狽させた人物がいる。大川と同じ鶴岡出身の盟友石原莞爾元将軍だ。其の時将軍は自力で出頭することが出来なく,東亜連盟の青年の引くリヤカーに乗って出頭しました。


 大川が松沢病院から退院した翌年,母の三回忌のために酒田に帰郷した際,石原莞爾が危篤だと告げられ,病床に駆けつけました。そのころ石原は意識が朦朧とした瀕死の状態でしたが,大川が現れると,にっこり(莞爾)と微笑んだという。そして,論理も明晰に世界と日本の将来や法華経の奥義について,40分も語り続けたという。別れを告げる際,大川は『やがて私も参りますから,極楽浄土の池の中で将軍が坐っている蓮の葉の近くに,私の為に一葉を取って置いてください』と頼むと,石原は言下に『承知しました』と答えたそうです。その二日後の昭和24年8月15日,石原莞爾は60歳で亡くなりました。石原に駆け付けた時の大川の年齢は63歳でしたが,石原の死の9年後,72歳で亡くなりました。
 

見舞った時の大川周明の言葉から,彼が精神病だったとは,私にはとても信じられません。
                                                                                             おわり