小野圭次郎の故郷いわき

 前回報告した「伯父 伊東甲子太郎」の著者小野圭次郎は,新撰組9番隊長鈴木三樹三郎の娘「はな」の婿です。旧泉城下北方4㎞のいわき市常磐下船尾町(旧磐城国石城郡岩崎村字下船尾で湯長谷藩領)に生家があります。また,近くに人気女子プロゴルファーの練習場があります。

 

       

               「先考 小野良意」にのる生家

 

       

    小野圭次郎生家(上の古写真)付近の現在の遠景


「小野圭」という名称で親しまれ,大正~昭和にかけて1050版,発行部数600万部の超ロングセラーとなった受験英語の参考書「英文之解釈」や,「英語の単語研究法」等の英文法,英単語等の数多くの受験英語の著書を多数刊行しました。英語学習参考書の基本スタイルを確立した受験英語のパイオニアです。

 

      

             小野圭次郎の著書

   
 先祖は戦国大名岩城氏の一族で笛ケ森(小野家背後の山)城主岩城三郎隆久の重臣でした。岩城氏が関ヶ原に参加しなかった罪で,後羽州亀田に石高を12万石から2万石に減らされ転封になった際,磐城の国に残り,帰農した家柄です。この岩城氏については,2022年8月18日付けで『秋田の「和歌山カレー事件」と,2つのイワキ』を投稿しています。
  父親は小野良意といい,泉藩の典医吉田良意について学び大きな影響をうけました。自身の名の良意は先生の名前を継いだという。驚くことに,最近(2024.3.29)知ったのですが,その藩医(漢方医)は,私に家の前の県道向かいにある大地主の農家でした。家を継いでいる主人(幼馴染の同年の女子の弟)に確かめました。

吝嗇と貪欲者を蛇蝎のごとく嫌い,金銭に淡泊で貧者弱者を助けることにわが身を顧みず,自身が困窮していても質屋で融通したり,本家から貰った土地を売却したりして助けました。圭次郎の従兄良房はこの良意に学んだが,その内容は細々な知識より,大きなものの考え方であり,叔父を評して「(漢方)医者というより哲学者だった」といっています。良意は自分のことより次の世代を担う子供達の教育に熱心で,圭次郎は父母と従兄の良房に大きな影響を受けた。
父が圭次郎という名前を使いたがる息子に,名前の「圭」という字は磨き上げた形の整った宝石という意味で,「圭治郎」と名づけたのだから,「二」等いう字を使うなと口うるさく言っていたという。だから,父の意を汲んで正式名(勿論自分の墓の名)は圭治郎を使った。後年,圭次郎は,良意の遺言に従い小野家を神道に改宗し,父の50年祭と母の30年祭を執行した際,教育が普及していない時代に子女教育に献身的な努力をした父母の生前の精神を慰めることになると考え,奨学資金の提供を町に申し出ました。

 

  

     「先考 小野良意」にのる田部の八幡神社

   伯母・良房の家は左端の杉の高木の根本付近にあった。

   

         現在の八幡神社と橋

  

          八幡神社の正面

  神主家(従兄)の家はその後,橋の手前の宿場に移った。      

 

  母親は泉藩領の田部宿場(旧奥州泉城下の西方2㎞)にある八幡神社の四女芳子でした。八幡神社の子供はいずれも女子で,良房は神社の跡をとった長女の息子で,田部小学校の校長を務め,従弟の圭次郎に福島師範学校進学を勧めた。圭次郎は幼時から母の実家の八幡神社を遊び場とし,後年師範学校卒業後田部小学校長を務めた2年間は母の実家から通いました。教育熱心な父母のもとで育った圭次郎は,福島師範学校後,高等師範学校(現筑波大学),妹2人(まつ,よう)は女子高等師範学校(お茶の水女子大学)を卒業し,福島県教育に貢献しています。
 前述のベストセラーの英語参考書等は伊予旧制松山北中の時,山海堂から出版しました。
山海堂は来島正時が神田で中学教科書・学習参考書の出版社として創業。やがて、出版分野を工学関係(土木・自動車)の教科書・雑誌に広げました。来島正時は,圭次郎が田部に通う旧陸前浜街道の途中,昼野にある澤田家(旧泉藩士で田部村初代村長)から出ました。来島の甥澤田正穂は星製薬(星新一の父,一(はじめ)創立)が所有するツルマーヨ農園(広さが四国の半分位)の総支配人で,星製薬隆盛の貢献者でした。澤田家の隣家はプロレスラー(ヒロ・マツダ)の母親の実家です。澤田家の援助に対し感謝の表敬訪問をしています。
 このように田舎は色々な人間関係が繋がっています。
                                                                             おわり