柳ケ瀬断層と賤ケ岳の古戦場

  滋賀県木之本町から余呉川沿いに真っすぐ北に延びる直線谷は,柳ケ瀬(やながせ)断層谷と呼ばれます。

地質図では真っすぐ北に延びる北端は福井県武生市方面に抜ける長さが50㎞もある断層です。

柳ケ瀬断層の木の芽峠から北西に甲楽城(かぶらき)断層が分かれます。甲楽城断層は越前海岸の絶壁をなす,地形的な活断層です。

     

       図ー1  柳ケ瀬断層と甲楽城断層

  出典① 武藤他(1981):活断層調査の例 柳ケ瀬断層,応用地質 Vol.22 ,No,1.

 

最近は,柳ヶ瀬・関ヶ原(せきがはら)断層帯と呼ばれ,日本海沿岸から琵琶湖東岸を経て伊吹山地南縁に至る活断層帯で,全体の長さは約100km,活動度はB(数千年に1度動く)とされています。

本記事は,琵琶湖北部地域の柳ケ瀬断層の話です。

 

  図ー2 柳ケ瀬断層を境に分布する小起伏面の分布:西側が沈降している(文献①)

 

柳ケ瀬断層を境にして,琵琶湖側の西側山塊が沈降しているのが分かります。
なぜ沈降が分かるか?
 両地塊には,昔,同じ平らな地形面だったものが,その後の浸食で彼方此方に残った「小起伏面」が分布します。図に柳ケ瀬断層沿いの両側の小起伏面を示しました。その高さを追ってみると,柳ケ瀬部落~上板取部落の間は,東側が西側より高く,南方程その比高が300m以上と大きいのが分かります。柳ケ瀬部落より南方では西側の山地には賤ケ岳以外には小起伏面がありません。即ち,柳ケ瀬部落以南地方は約300m程西側が沈下しているとも解釈出来ます。
また,図の下には滋賀県側の余呉川と高時川と孫谷川の関係が示されてあります。河川勾配が急の度合いを見ると,栃ノ木峠以北の孫谷川が高時川を浸食していて,更に高時川の上流域(の五位谷川)を余呉川が浸食している様子が分かります。そして,柳ケ瀬部落以南では余呉川が高時川より下を流れている。両河川の下流は琵琶湖に流れているのをみると,余呉湖は琵琶湖の水位に近いし,これは以下の沈降地形(図ー9の余呉湖や東に開いた平野)が柳ケ瀬部落以南にみられるのです。沈降地形は余呉川の扇状地堆積物が沢の出口を塞いで堆積したり,湖になったりした地形なのです。

 

     

              図ー3 中の郷の風谷地形(谷中分水界)


 この極端な例が,中の郷に見られる谷中分水嶺(風谷)です。東の高時川が余呉川より河床の標高が約50m高く,分水界までの標高差が約30mでなだらかな地形なのに対し,余呉川は100m近い標高差があり,元々の高時川水系を後から浸食した地形です。浸食による堆積物が中の郷部落の扇状地を形成しています。中の郷ばかりか柳瀬断層に沿って,東側の山塊には扇状地が数多く発達し,その扇状地堆積物を切る断層露頭が彼方此方に見られます。つまり,柳瀬断層によって西側の地形が沈降して以降にできたと考えられる地質的な証拠があるのです。


 私はかつて,ここに示した柳ケ瀬断層の引用論文①の調査員の一人でしたが,ケガでリタイアしました。40数年前の話です。その時は椿坂付近担当で一人で調査していました。丁度断層の真上にある北国街道の斜面(10m位の高さ)の観察を終えて斜面を下る時,ツタに脚をとられて街道の砂利道に強く叩きつけられました。ツルハシやハンマー等先がとがった道具でケガはしませんでしたが,苦痛でしばらく息もできませんでした。全身の傷みで身動きが困難でしたが,車まで砂利道を這いながら辿り着き,半身不随ながら車を運転して宿に帰りました。
 風呂に入ると,仲間が左半身が真っ黒だといいました。内出血していたのです。そのうち脚が倍くらいの太さになって曲がらなくなり,トイレにも行けない。宿は和式の便所なので左足を真っすぐに伸ばし,右足と両手で体を支え,アクロバットのようにして用を足しました(笑)。見かねたリーダーの判断で調査から外れたのです。帰京しても嫌いな病院には行きませんでした。内出血は紫色になり上から脚の方に降りて行き,跡は黄疸となって,結局,自然治癒で通しました。

  地質調査はレンタカーの都合で最初福井県敦賀市を基地にして,柳ケ瀬断層のある現場迄車で通っていました。しかし,40数年前の当時は,現場まで行く道は賤ケ岳経由の遠回りしかなく,移動時間の大きなロスとなっていました。現在のように高速道路がなく,廃線となった旧北陸本線柳ケ瀬トンネルも,道路トンネルとして移管間もなく,管理用の車両しか通れない状態でした。しかし,背に腹は代えられないと,止むを得ず廃線伝いの道路と旧柳ケ瀬トンネルを通りました。

 

 

         図ー4 柳ケ瀬トンネル位置

 

    

 

     

   図-5 現在の柳瀬トンネル西坑口とトンネル内部(ライト照明がある)

  坑口の右手は高速道路の橋脚。

  吹付コンクリートで補修され,当時のレンガ造りの様子は分からない。

  道路も砂利道であった。


  旧柳ケ瀬トンネルはトンネルの長さが1352mと長い上,西側坑口はカーブで入るため中に入ると両坑口は見えず,全くの暗闇となります。レンガのアーチ部は蒸気機関車の煤で真っ黒で,勿論照明はありませんでした。
  皆さんは,ディズニーランドのスペースマウンテンに乗ったことはありませんか。闇の中の無重力状態の恐怖。あれと同じ感覚を柳ケ瀬トンネルで体験しました。
 一般通行の制限を破る後ろめたさで,西側坑口から早めにライトをつけ飛び込みました。ところが入口から煤の黒さにライトの光が吸収されて遠近感覚がなくなり,周囲の視界が全く効かず,上下左右も判断できなくなりました。まるで宇宙遊泳状態のような不思議な感覚になったのです。ハンドルの手も脂汗で,危うくトンネルの側面に激突するところでした。こんな経験から,宿を現場に近い木之本町に変えたのでした。写真は現在のトンネルです。坑門と内部の吹付の補修により当時のレンガ造りは見られません。ライトもついてトンネル内部は明るく通行に危険は感じられません。

 

    

              図ー6 柴田勝家の玄蕃尾陣城(GoogleMap)  
 
 その柳ケ瀬トンネルの上が,賤ケ岳の戦いでの柴田勝家の玄蕃尾城(本陣城)だったと知ったのは後のことです。加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,糟屋武則,片桐且元,七人の「賤ケ岳の七本槍」が余りに有名ですが,余呉町の中の郷にあった堂木山砦~秀吉の防塁~東野山砦の防塁壁線が戦に重要な役割を果たしました。
  賤ケ岳の戦いはあまりに有名ですので,詳細は諸文献を参照していただくとして,ここでは地形学的な方面から妄想(考察)してみたいと思います。

      

   

               図ー7 賤ケ岳案内図
 
まずこの地域を戦場として選んだのは勝家側,秀吉側どちらだったか?,という疑問があります。
  柳ケ瀬断層(余呉川)沿いには北国街道が通っていて,柴田勝家の北ノ庄城のある福井に直結しています。福井県側に入ると武生周辺から平野が続き,守りに弱い地域です。だから,勝家側が北国街道の狭い峡谷区間で,椿坂峠から琵琶湖に下り坂となって有利な区間を選んだ。おそらく,勝家側が先に確保したのでしょう。これに対し秀吉側は,北国街道の中で尾根が突き出している隘路位置に防塁壁を築く必要があった。短期間に築く必要からあまり高く作れないけれど,墨俣一夜城,長篠の戦い,鳥取城封鎖で木柵の効果を十分体験していた秀吉軍は防塁上構築する案を採用していたであろう。また,構築時に攻め込まれないように前面にある程度の視界が効く広さをもった地域に,防塁壁を山の上まで構築した。予想される防塁壁前の平地の決戦では,勝家軍の側面を突けるように,東側山塊の東野山砦に戦争の名手堀久太郎を配置した。また,側面からの勝家軍の奇襲に備えるため,中の郷の風谷地区を自軍の陣地に取り込んだ。

 

    

        図ー8 両軍の配置図

 

    

            図ー9 図ー8をGoogle Mapに落とした図

 

    

      図ー10 堂木山砦~東野山砦を結んだ防塁壁ライン

        出典② 藤井(2005):ドキュメント戦国の城


  防塁壁が破られた時の備えとして,余呉湖の北岸に神明山砦,茂山砦,余呉湖の南岸と南東岸に賤ケ岳と大岩山,岩崎山を配置し,田上山の羽柴秀長で対峙した。
 小起伏面図にみるように柳ケ瀬部落以南の山々の標高は,柳ケ瀬断層の東西で大きな差はないが,佐久間盛政が布陣した行市山陣城は100m以上突出していて両軍全体の見晴らしが効く位置にある。この陣城から前田利家の守備する塹壕や土塁遺構,権現坂に至る山尾根には5か所以上の哨戒施設(見張り所)や堀切があり,更に玄蕃尾城(そのものも複数の郭からなる1つの要塞)から行市山の間約4㎞に作道を普請したことが記録され,勝家軍は土塁囲みによる単郭構造の陣城を基調に,各陣城を連結する塹壕や土塁を含めて,行市連峰を全山要塞化していた。羽柴秀吉は行市山連峰の北国軍の陣営を視察して,「敵ながら見事な陣」と称賛したという(図ー2の行市山陣城の位置に注意)。

 

  

 

     

      図ー11 賤ケ岳古戦場


  天正十一年四月二日,柴田勝家は秀吉軍に向かって攻勢に出た。しかし,防塁壁に阻まれ突破は失敗した。最終決戦の十八日前のことでした。勝家軍は平地の防塁壁攻撃の失敗から作戦を変更し,迂回して防塁壁の背後に出る路を秀吉軍が展開する地域の西方の峰に求めた。四月十九日深夜,勝家軍別働帯(佐久間盛政・安政,柴田勝安)は無警戒な峰伝いに防塁壁内部への侵攻に成功し,中川清秀の大岩山陣城を奇襲。数時間の戦闘後中川部隊は陣城で全滅した。大岩山の陣城攻略と同時に勝家軍が北国街道を南下すれば,勝家軍の勝利の可能性は高かったが,大垣にいた秀吉が賤ケ岳の戦場に戻り反撃に出たため,勝家軍は敗走することになった。敗走路は侵攻尾根道の逆走だったため,秀吉軍はここを追撃し,遅れて北国街道の狐塚付近まで進出してきた勝家軍の側面を襲撃し,崩壊させた。その4日後,北の庄城で勝家敗死。
  軍隊は正面には強いが側面や背面の攻撃には動揺して弱い所があり,勝家軍は秀吉軍陣城の背後を襲う作戦に出たのです。しかし,余呉湖の南,南東岸(賤ケ岳や大岩山)への攻撃は,復帰してきた秀吉軍の攻撃に対しては側面~背面にあたるため,当初勝っていても長時間の戦闘では負けた結果になったと思われます。

 

一説には,佐久間軍が深入りしすぎて賤ケ岳を攻撃したことを聞いた時,柴田勝家は負けを悟ったという話があります。尤も敗軍の将の胸の内を誰が分かったか?という大きな疑問もあり,全くあてにならないのですが,もし本当なら,山伝いに奇襲するのを承認したのは,賤ケ岳ではなくて,直接防塁壁を突破する余呉湖北岸の茂山と明神山だったのではないか?という疑惑を感じます。その余呉湖北の攻撃ルートは,南半分の移動時間ロスを省き,秀吉復帰軍と賤ケ岳・大岩山・岩崎山からの攻撃は余呉湖が防いでくれるので,時間的に防塁壁背後を側面から奇襲攻撃でき,防塁壁の陣地を直接排除できたのではないか。そして,勝家軍が防塁壁を破ってなだれ込み,別働奇襲軍と勝家軍が合流して秀吉軍に当たることができた,そんな思いが致します。
                                                                     おわり