超二流論・再考

  かつて,本ブログ2021.12.25投降にて,「超二流」についてクーロン(1736~1806)先生を取り上げたことがあります。彼の述べた言葉『科学は公共の福祉に捧げられた記念碑である。だから市民は誰も,その能力に応じて科学に貢献する義務がある。偉い人が建物の最上階に選ばれ,それ以上の階を設計し建設するのに対し,普通の職工たちは低い階に散らばった基礎の影に隠れたりして,より聡明な工人たちが創り出したものを完全にすることに努力すべきである。』というものでした。華々しい学歴もないながら,一流の学者・偉人となった人で,私のような凡才の技術者でも,自分の仕事ではその能力に応じて頑張る(科学に貢献する)義務があると言っているようで励まされました。

 

                      

        運土計画 (左側の区域が切土量の大きい区画)

    
  40年ほど前の大昔,私は線形計画法による運土計画で技術士を取得しました。山あり沢ありの土地を造成する場合,切った土(切土)と盛った土(盛土)の量がプラ・マイ=ゼロになるように設計します。土の量が余った場合は土捨て場にワザワザ捨てに行く,不足する場合は土を買ってくる,ことになり,どちらにしても膨大な費用が掛かるからです。それから切土を盛土部に能率的に運び,費用を最小にする問題が生じますが,その計算方法が線形計画法です。その後も線形計画法に興味を持ち続け,色々な解析(応力や温泉)に使っていました。

         

         線形計画法に関わった人たちの物語   



 今野浩著「工学部ヒラノ教授」シリーズは,線形計画法を発明したジョージ・ダンツィグ教授の愛弟子である著者が,線形計画法の成り立ちやダンツィグ教授の人となりについて,分かり易く解説しています。そこは建物の最上階を設計する数理工学(工学の問題を数学で解く)分野の一流の学者達の世界です。出てくる学者は日本と世界の天才・秀才ばかりで,読んでいてこんな世界があるのか!と,感動しました。そして,そこでは秀才の著者自身さえも,彼らと比較すると1凡才だと謙遜されて描かれていますのです。

 最初に,ヒラノ教授の体験談として,同じ数学ながら教養過程で教えられる(理学部の)数学について,「数学者の数学者による数学者のための(純粋)数学」に苦しめられた,と厳しい感想が書かれてあります。それに対し,「エンジニアのエンジニアによるエンジニアのための,社会の役に立つ(応用)数学」の面白さを東大工学部の森口繁一教授に教えられたというのです。私も別な大学で全く同感の経験をしました。そして訳が分からない記号がいっぱい出てきて何も計算をしない数学(世の中にどう役立っているのかを教えない数学)に大いに失望しました。例えば,高校で習った部分積分がどう役に立っているのか教えてくれないのです。その意味が難しい弾性理論(変分法)を解く1方法だったことを工学部の授業で知りました。

 ではそんな理学部は何を得たかいうと,万事について疑い深くなったことです。理学(科学)は既存の常識を疑う学問で,工学は既存の成果を信じて利用する(技術の)学問だからです。それは,自分が疑っている学問を,学生に教えるのは躊躇するでしょう,普通の神経では。だから,自分が教えるのは如何に正しいかという授業になってしまうのです。

 私の場合工学部志向の人間でした。受験学部を間違えたのです。しかし,時遅し,後の祭りでした。そして,理学部で,あの東北育ちの素朴でウブな男が,すっかり,へそ曲がりになってしまいました。本ブログでも,疑い深い記事に気づいたでしょうか? 
 加えて,地質学科に迷い込んだために,(毒蛇や熊が一杯いる)危険な深山に一人で入っていくことを義務付けられて,神経が摩耗し,卒業する頃には,万事アバウトな性格に変わってしまいました。「青びょうたん」といわれた,あの几帳面な性格はどこに行ってしまったのでしょう(笑)。

 「工学部ヒラノ教授」に書かれている線形計画法は,開発者ジョージ・ダンツィク教授(米国スタンフォード大学)という天才的な一流学者の業績やそれに至る実話です。
そこでは,線形計画法の発明者がノーベル賞受賞に至らず,それを経済分野に応用した人がノーベル賞経済学賞を得たり,先進学者が開発した方法を後進学者により特許で横取りされるといった不条理について,悔しそうに述べられているのです。だって,線形計画法が発明されなかったら経済学賞なんてなかったからです。

 一方日本においては,最高学府(どの教科でも100点近い点を取る天才・秀才が入る)東大の,一流の教授による学問の世界,それに繋がる世界の一流学者との深い交流,学閥,学内人事,師弟の確執,天下り,他大学出身教官への差別,エリート意識等々が,同時にユーモアティックに描かれています。著者自身,東大出身であるため気づいていないように思えますが,他大学出身の読者にはそいう,素晴らしくも,師弟でも愛憎が入り混じる人間臭さ,アカデミックな世界がある世界を思い知らされます。

 しかし,現実は我々は最高学府を出ていない一般的なサラリーマンです。どの辺に人生の目標を置くかというと,やはり,クーロン先生の普通の職工の世界なのです。かといって,自己流オンリーではどうしても限界があります。だから,私はそういう一流の先生や研究者に図々しく押しかけ,あるいは手紙を書いて,厚かましく教えを乞うことをしてきました。それは,学問では,熱心さが第一で,才能に勝るということを説く,某教授のような方の言葉に励まされたからです。その経験は,2022.3.08投稿「北陸新幹線・・」, 2022.3.12投稿「めぐり合い・・」に示してあります。

 押しかけられた先生達もさぞや迷惑だったでしょう。私の場合,幸いなことにすべての先生が受け入れて下さいました。多分,工学部の先生達だったからでしょう。人によってはウルサクく思われ無視されてしまった,とか,成果だけ盗られてしまったという経験を話す人もいます。それは多忙な学者によっては一々対応出来ないからでしょう。あるいは一定以上の学歴者以外の一般人は相手にしないと考える先生達であったのかも・・・分かりません。

  話が長くなりました,最後に,先日(2022.8.29「ノーベル賞下村脩先生」)投稿の中で,4名の学士経歴によるノーベル受賞者を述べました。他の国の受賞者は最高学府の博士や学識経験者なのに,日本の場合,学士経歴の研究者が全受賞者の17%(23人の内4人)も出ているのです。私は,これは他の国にみられない素晴らしいことだと思います。逆に言えば,日本では,誰でも科学に興味があれば,ノーベル賞を採れるチャンス・可能性があるというということだからです。他の国は厳しい学歴社会のため学士経歴では研究の場が与えられないのでしょう。

 これまさに「東大は何でもできるゼネラリスト,この大学はこの分野のここだけは東大に負けないよ,というスペシャリストを育てる大学」と言い切った都内私大の恩師の言葉そのものです。そして,ノーベル賞を受賞された4名の先生達は,敢えて失礼を恐れずに言うと,クーロン先生の現代版職工ではないかと思うのです。そして,クーロン先生のように皆さん超一流の学者・研究者となられました。
 日本は戦後大学教育を受ける人達が大幅に増えました。それは,戦前学歴がないために苦労した我々の親世代の願望だったからです。そういう意味で,誰しも熱心さと努力と才能さがあれば,日本ではまだまだノーベル賞を受賞する人が出てくるのではないかと期待するわけです。
                                おわり