国定忠治と大前田栄五郎:終焉の地と2人の墓地巡り

群馬県榛名山の西麓に,高崎から中之条や草津方に抜ける大戸関所がありました。
国定忠治は殺された信州にあった義弟の仕返しのため,その関所を3回も破っていたそうです。写真は何十年も前のもので,関所の構えも真新しいのですが,現況をGoogleMapで確認すると,現在は雨風や雪に晒されて古びて見る影もありません。

 

        

          大戸関所跡  

 

        

      大戸関所跡の側面(関所の説明書あり)

        
        大戸関所跡の説明
 私は国定忠治については映画や講談・新国劇等で演じられる赤城山での抵抗話や,逃亡中に中風にかかり,匿われていた隣村の民家で捕えられた話等を知っている程度で,具体的なことは知りませんでした。大分武闘派だったようですね。逮捕されてから江戸のお白州で死の裁きを受け,大戸関所近くで磔により処刑されました。
 関所には処刑地跡に赤い肌着を着た石製の大きな地蔵尊や慰霊碑が建てられてあります。最も奥に「長岡院法誉〇〇居士」と書かれた墓が据えられてあり,脇には石板の由来書と子分十二人の子分の供養碑もありました。
昔からこの地蔵尊におすがりすると脳卒中に掛からないという。

 慰霊碑建立の由来
侠客国定忠治は上州佐波郡国定村に生まれ天明の大飢饉に際し民百姓の日々に餓死する者増大するを見るに忍びず,岩鼻代官所に畜米の放出救済方請願せしも面倒無用の仕様に我慢ならず,子分引き連れ畜米を開放して餓死寸前の庶民に分かち与え,為に代官所破りとして役人の追うところとなり赤城山に籠りたるは有名な物語である。忠治は又郷土の水利不便な土地柄を憂え,私財を投じて貯水池を開発し,以来百有余年今なおその恩恵に近在農民の浴しているなど,民衆の為には身命を賭し善意のものを助けしことは枚挙にいとまなく,その任侠心は大衆の愛するところであったが,大戸の関所やぶりと代官殺害の罪にて嘉永三年十二月二十一日この地において磔の刑に処せられた。その霊を祀る地蔵尊が永い風雪と中風の妙薬ということにて削られ損耗甚だしきを,その義侠心と勇邁なる男の意気とを同じくする大阪市の人石本久吉氏の知るところとなり,ここに更めて碑を建て霊を慰めることとなれり。
    昭和四十三年七月吉日
    世話人 群馬高崎 茂木好一 高橋定方 富田和雄
            埼玉大宮 山本文平 榛名町 中曽根国忠
            大戸   土谷貫一

  由来書にある代官殺害は義憤のためとはいえ重罪です。若い時分のある殺人で上州の大親分大前田英五郎に匿われ,そこから渡世人人生が始まったようです。大分武闘派だったようで,色々重罪を重ねた一方,上記由来書にあるように民衆からは数々の庇護を受け,病気になるまでは逃げおおせました。

 

        

   国定忠治慰霊碑(左端:由来書石板,その右:墓,右端:子分の供養碑)        

 

             

     国定忠治の墓        慰霊碑の由来書

 

        

        処刑場に立つ地蔵尊
 

  大前田栄五郎は色々な揉め事を終いにすることで大親分になったと,墓の由来書にあります。確かに一族に囲まれたお墓で賑やかで,国定忠治とは対照的です。

 


          大前田栄五郎の墓に立つ説明書

        
      大前田栄五郎の墓(墓石の頭部が丸い)

  国定忠治の墓は故郷国定村(JR両毛線国定駅近くの)養寿寺にあります。寺内にある墓地に一際高い大きな墓石があり,大きな字で「長岡忠治の墓」と書かれています。その左後ろに鉄格子で囲まれた小さな墓があります。どちらが国定忠治の墓なのか,この墓地の他の墓石も殆ど「長岡」家のもので,「長岡忠治の墓」が国定忠治の墓かどうかはっきり分かりませんでした。

        

   国定村にある養寿寺にある「長岡忠治の墓」と

      左後ろにある本物の墓(鉄柵に囲ってある)  

        

         国定忠治墓の説明

 

        

        お参りに来た近所の小母さん


 暫くすると近所の小母さんが生花を持より,左に隣接する小さな墓にお参りしましたので聞きました。すると,その小さな墓が本当の国定忠治の墓でした。大きな墓はいわば支持者たちが造った墓だとか。国定忠治は出が「長岡」なので別名長岡忠治というそうです。
 その小さな墓は台の上に乗った頭部が丸い細長い墓石で,何か字が書いてあるのですが不明瞭です。墓石の前には鋼製の賽銭箱,墓の周りは鋼製の柵で囲まれてあります。
  小母さんがその説明をしてくれました。
  昔は墓石は四角だったけど,墓を訪れる人たちが削り取って持ち去り,現在みたいに丸くなった。墓石のかけらをもって,競馬競輪ボート等の賭け事をやると勝負に勝てるから,皆寄ってたかって持って行ってしまった。賽銭箱も昔は木製だったけど,壊して賽銭を盗む人が出てきたので鉄製にした。墓も中に入れないように鉄製の柵で囲んだという。
墓石は檻に入っているみたいだね,と笑っていました。
大前田栄五郎の墓石も,やはり削られて頭部が丸くなっていました。
                                                                    終わり