今回は,出会いとめぐり会いのお話です。

 

    

 北陸新幹線五里ケ峯トンネルは,長野県の千曲市(旧更埴市)と坂城町を抜ける15.175㎞の長大トンネルです。写真は五里ケ峯トンネルのアクリル製の文鎮です。横からみる断面は新幹線のトンネルの約200分の1の形をしています。
 戸倉工区は建設会社K組担当の工区で,山岳トンネル掘削の日本記録(おそらく世界記録?)月進281m(大出水事故で進行が遅れたところを入れても平均月進166mでした)が達成されました。工区の責任者は私の師匠N所長でした。先の文鎮は貫通祝いと書かれた檜造りの升と記録DVDとともに,北海道にいた私に送られてきたものです。

                  トンネルの地質縦断面

               

                   新幹線断面   

 私はかつて戸倉工区の地質調査を一部担当したことがあります。
トンネルの地質は,石英安山岩質の緑色凝灰岩,安山岩,珪質の黒色頁岩でした。トンネルから~地表までの高さ(土被りといいます)が約500mなので,予想される地圧はコンクリートが圧縮破壊する位の大きさ(約200㎏f/c㎡)でした。普通その地圧では黒色頁岩は破壊してトンネルが潰れますが,五里ケ峯トンネルの頁岩はガラス化(珪化)していて,強度が堅硬な御影石と同じ位大きく,土圧の問題はなかったのです。

 

    


  私がN所長に出会ったのは長野県の伊那市高遠町にある白山トンネルでした。当時,長野県から発注されたトンネル管理の仕事で,東京から高遠に出向いていたのですが,交通の便が悪くて毎回泊りがけになり,工事現場所長の好意で皆さんと同じ釜の飯を食べていました。Nさんは当時,白山トンネルの技術主任をしていました。トンネル屋としてデビューしたての私は,トンネル現場の「実務上の問題」を教えてもらったのです。

 

    

    入口の道路切り下げによって既往の道路と水路(橋の陰に

    ある)をぶつからないようにギリギリ橋にせざるを得ず,

    その工事が発生した。また,トンネルに近接した鉄塔(右手)

    の影響の検討も必要となった。

 

    

    トンネル出口の巨転石(お膳岩),その下は緋鯉の養殖池で,

            トンネルの左側の斜面を掘削したり,発破振動により道路側

    に落ちてくる恐れがあった。

            また,坑口部に予期せぬ古い土葬の墓が抜け落ちて,トンネ

    ル内に落ちてきた。

 

問題点は,ギリギリの高さにある入口の道路と水路問題の回避,坑口直上10mにある鉄塔の問題,出口にあった巨転石(お膳岩)への足元掘削と発破振動の影響と対策,出口に突然現れトンネル内に抜け落ちた土葬墓の対策と供養の祈祷問題,近隣にある精密機械工場への発破振動の問題,異方性が強い片麻岩の不安定問題,支保パターン変更と取り寄せ時間のギャップの問題,会計検査対応の問題でした。その他,私が当時施工管理を担当していた複数の他社トンネルの問題の相談等でした。
 現場の雰囲気は所長や技術主任の人柄もあって順調に進んでいました。とはいえ,桜の季節には(高遠町から招待された)高遠城の夜桜見物,馬刺・焼肉・ビール・・その後のフィリピンパブ・・懐かしい思い出です。Nさんは映画「黒部の太陽」に出てくるトンネルの神様の臨終の場に立ち合いを許された一人でもあります。

  当時,私は土木学会で岩盤力学委員会トンネル小委員会の委員をしていました。委員長は旧国鉄鉄道技術研究所のY室長でした。以前,私は当時新しいトンネル技術(NATM:New Austrian Tunnnel Method)を学びに地質研究所に2年ほどお世話になっていたのです。その引きで委員にしてもらっていたのです。国鉄の研究室は一流の研究者で構成されていました。1民間技術者の私は入社から「お施主様(発注者)は神様だ」と教育されてきたので,どうしても言葉使いなどに地が現れていました。ある時室長室に呼ばれ,「何を卑屈に振る舞っているのだ! 同じトンネルを研究する技術者としては官民の差はない。対等だ!」と注意されました。こんな熱い言葉は初めてでした。それも鉄道のトンネル技術基準を作った偉い室長がそう言い切ったのです。若くしてお亡くなりになりましたが,心に響く恩人の一人です。しかし,それでも,なれなれしく行動するするのは控えていました。そうしないと田舎者になってしまいますので。
 
 新しく委員長に就任したのは国際岩盤力学会副会長の高名なK大のS教授でした。
トンネル屋になりたての頃,多忙の先生に連絡を取って大学の研究室に面会に伺ったことがあります。先生は1面識もないのに会ってくれました。その時,不躾にも先生が開発したソフトをタダで下さいとお願いをしたことがあります。今から考えると余りに不躾で冷や汗・赤面のいたりです。
 その10年位後,土木学会の委員会に向かう途中,四谷の駅近くで先生に後ろから声をかけられました。その時,まさかこんなところに先生?と思い,誰だか分かりませんでした。だから,その時の小委員会で新しい委員長として先生が目の前で紹介された時,何とも恥ずかしい思いをしました。
  先生は,世界的な学者にも拘わらず謙虚な方で,「若い時分から私はトンネルの先輩達に何かと引き立てて貰い,今のように育てて貰った。今度は自分が若い後輩たちにしてあげる番だ」と口癖のように話されていました。だから,先生は率先して若い人達に何かと声をかけていたのです。私の数々の赤面の場面もその一環だったのでしょう。それで当時の若いトンネル屋は,皆先生と意思疎通ができたのだと思います。各地の見学会でも最後まで酒席に残り,「世界の一流のトンネル屋は最後まで酒を付き合うぞ~!」などと冗談をいいながら,欧州のトンネルの最新情報や活躍している先人達の話を話してくれました。

 小委員会の新しい運営に関しては,「我々土木学会に所属している大学やゼネコンの研究者は,実験や分析・解析で論文を発表し易い。しかし,トンネル現場では最先端の技術や独創的な工夫をしている優れた人達が一杯いて,彼らは仕事が忙しかったり,企業秘密のために発表できないでいる。だから,そういう人達にこの委員会で発表して貰って実際の現場の勉強をしよう。ひいては,各自,そういう人に声をかけて来てもらいたい。」と話されたのです。先生のこの考え方は,恐れ多くも(本ブログ2021.12.25投稿)で紹介した「知られざる超二流の人が世の中には一杯いる」,というのと同じ考えなので,感動しました。
 そうして,小委員会で現場技術者の勉強会が始まりました。
 私は師匠のNさんに講演を頼みました。
 普通の講演は,委員長が講演者に駆け寄りお礼の挨拶をして,講演者の紹介後すぐ始まるのです。が,その回は委員長が師匠の紹介をした後,珍しく,何度も師匠にお辞儀して何事か長い話をしていました。
 師匠の講演は,五里ケ峯トンネルの話でした。DVDによるトンネル記録の紹介後,掘削の月進記録を達成するための工夫について説明してくれました。その先進的な攻めの姿勢があったからこそできたのです。
 通常,良好な山の場合,全断面工法(1度にトンネルの断面形に掘ります)で1発破長は最大1.5mで掘ります。その後支保し,ずり出しする施工サイクルで,1日昼夜で2サイクルなのです。だから,土日の休みなく掘ると2サイクル/日×1.5m×30日=90mで,どんなに頑張っても100m/月が限界なのです。それを最大月進281mで達成したのです。それだけでも驚異的な数字なのです。
  早期完成のためには(早期完成は利益アップに繋がる),サイクルの各工種で抜本的な改良が必要でした。時間がかかるズリ積みトラックの選定,掘削と支保の時間を短縮するための大型機械の導入と1掘進長の長孔化,大型化による作業時間の短縮化,短縮化による1日4サイクルの実施等,思い切った取り組みがなされました。
 ズリ積みトラックは,長いトンネルを走ってきて,途中バックで切羽に近づきズリを積むのですが,幅の狭いトンネルでの方向転換は時間がかかるのです。それを4輪独立に回転半径を変えて(極端に小さい回転半径で)自力で方向転換ができる,積込容量の大きな外国製を採用することで,大幅な時間短縮を成し遂げました。
 数多くの発破孔やロックボルト支保工の削孔の時間短縮は,通常の2倍の6基の削孔機を積めるレール式大型ガントリージャンボを採用し,大型化により掘進長(通常は掘進長1.2~1.5m)を2.5~3mと倍に伸ばした工夫がありました。そればかりか,掘進長を長くすると通常掘削する断面の凸凹が大きくなって不経済になるのですが,大型のガントリーにより,トンネル断面に平行に近い形で発破孔を掘ることができ,無駄なずりを出さない大幅な経済性アップが挙げられます。勿論,大型化により支保工の建て込みやロックボルトの打設も短時間で容易になりました。
 珪質黒色頁岩の硬さが事前に分かっていたから事前に準備ができたのですが,映画「黒部の太陽」に見るように,トンネルは一寸先が闇の世界です。だから,掘削前に探りの削孔を入れ,切羽の先の状況を用心深く把握していたそうです。それでも断層にあたって大量の出水があり難航したといいます。その対策で掘削が中断していた時期を加えても,平均月進が通常の2倍以上だったとは驚きでした。

  講演後の帰り,師匠と四谷の喫茶店に入りお礼を延べました。そして,疑問に感じていたこと(なぜ委員長は何度もお辞儀していたのか?)を質問をしました。驚くことに,委員長の息子さんは師匠の旅館に下宿しているというのです。師匠は松本市の浅間温泉に住んでいたのは知っていましたが,旅館兼業だったとはその時初めて知りました。ましてや大家さんだったとは!
ファンタ~スティック!ファンタ~スティック!(凄え!凄え!)です。
それから,先生がとても身近に感じられるようになりました。

  その後先生はK大を定年退職しH大に学長として移られました。私もしばらくして広島に転勤になったので,早速挨拶に伺おうとしましたが,入れ違いH大も退職となり,最後の講演を聞きに参上しました。先生は壇上近くで関係者に囲まれて忙しそうでしたので,出しゃばらないように遠くから一礼し,後ろの方の席で講演要旨を読んでいました。水臭いですね。
 すると頭の上で「おい,元気にしていたか?」と突然の声,見上げると先生がわざわざ私の席まで来てくれ,笑顔で立っていました。思わず直立不動で挨拶を返しましたが,そういう人柄の先生でした。

一流の先生とは,そういう人たちを言うのだと思います。
  私は,そういう尊敬するトンネル屋と先生たちに恵まれたなぁと最近感じる次第です。
                                                                    おわり