高度成長時代は,日本のトンネル技術が急速に発展した時代でした。日本の複雑な地質に対応した日本式のトンネル技術に,より新しい新オーストリア工法(NATM-New Austrian Tunneling Method)の吹付コンクリートとロックボルト手法を取り入れるべく,官民一体になって勉強しました。ある時は本場から工法の提唱者を講師として招聘したり,現場は熱気にあふれ,世界最先端の技術取得に挑んでいました。山陽新幹線,北海道の紅葉山線,上越新幹線・・。
 日本の地質は岩盤が弱いため,トンネルを掘るとトンネルが潰れて内側に押し出してくることが問題となっていました。その設計手法はコンピューターによる数値解析が効果的でした。道路と鉄道で使えるソフト開発は,私の先生経由で彼が顧問をしている情報センターに依頼し,多額の投資をしました。開発したとはいっても,元々共通する解析手法の上に個別の機能を付加したものなので,著作権は開発元,社は使用権とソースコードを所有する契約でした。
  そこに外国人が入り込みました。
その人は東大に留学したもののオーバードクターで行先がなく(国には帰れないという),大学から頼まれた親会社が扱いに困り,子会社の当社に回して来た,いわば厄介者扱いの人でした。社の技術的な懸案事項を解決するという触れ込みでしたが,実務的には無能でした。その人が開発直後のソフトに目を付けたのです。
 彼の言い分が,日本は中国に対し戦前悪いことをしたので,私にソフトを譲るのは当然だというものでした。私の直属の上司や先輩もそれに同調して,私に提供しろと言ってきたのです。
  何かオカシイ,私は反対しました。
本人に対しては,中国といったって当時,主義が異なる3つの政府があったし,支配地域も違う。そもそも当時の国家と貴方個人とは関係ないのではないか? それとも貴方は今の国家からいわれたのか? と撥ね付けました。
 上司・先輩達に対しても同様に対応しました。大問題になった時背任の全責任をとるのは私になるのです。なぜ私にやらせてあなた方が直接動かないのか? と糾しました。勿論,私は上層部にその指示が会社のものなのか確かめました。会社の指示ならソフト会社や先生に対し,会社が裏切ることになるからです。
 先輩社員は人柄が良く私も親しくしていましたが,その時は変に「良心的」になりました。オーバードクター解決に便宜をと,友人の教官に私的に掛け合ったりしていましたが,教官だって公的な立場というものがあります。結局,事態がコジれて全てを失い,退社する羽目になりました。それはそうです,私的に動く筋合いのものではないから。
  結果は,会社としてもその外国人に会社を辞めてもらいました。勿論,ソフトの流出は防げました。

 

     

                    伊能忠敬旧宅(佐原市)

        

   伊能忠敬像(佐原市)          シーボルトハウス(オランダ・ライデン市)

           

           若きシーボルト(シーボルトハウス)    

    

      

    間宮林蔵生家(つくばみらい市)    間宮林蔵像(同左)


  この事件は,江戸時代末期に起きたシーボルト事件の図式と非常によく似た構図ですね。
伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は,江戸幕府の資金を使い,伊能忠敬の測量隊が作り,幕府に収めたものです。幕府はいわば所有者で,非公開でした。幕府は,幕末に起きた諸事件(例えば,幕末各藩に命じた蝦夷地防衛の守備位置策定)の対応に伊能図を使用したと思われます。そこにシーボルトが親しい幕府天文方の友人高橋景保(伊能忠敬の先生の長男)にコッソリ持ち出しを依頼したのです。彼は友人の頼みに悩んだことでしょう。しかし,私的な感情が勝ってしまったのでした。その地図が友人の私的な範囲ならまだしも,悪意の第三者に渡ることも十分考えられました。当時は帝国主義全盛の幕末期でした。幕府としては財産の窃盗にあたるので,関係者を処分するのは当たり前です。高橋景保は伝馬町牢屋敷で死亡しました。

 

    

           私が所属した会社は,伝馬町牢屋敷の近くにありました。        

 
  私の事件と比較すると,幕府=会社,伊能忠敬=ソフト会社,「大日本沿海輿地全図」=開発ソフト,シーボルト=外国人,高橋景保=上司となります。一説には幕府に知らせたのは部下?の地理学者間宮林蔵といわれます。間宮林蔵は責任者ではないけれど,指示の確認を行った点で私と同じ立場にあります。
 そんな私のシーボルト事件でした。
                                                                                 おわり