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 公園の東,長良川と木曽川       公園の北

  

  公園の西 揖斐川    公園の南 千本松原(右揖斐川 左長良川)

 

 三重県長島町(現桑名市)に木曽三川公園があります。
長島町はご存知一向宗の長島一揆があったところで,織田信長が鎮圧に苦戦したところです。対岸の愛知県津島市には織田家の勝幡城がありました。この地域は木曽三川(木曽川,長良川,揖斐川)が合流するところで,川が網の目にように入り組んで昔から河川の洪水被害が多発していました。網の目の各中州はそれぞれ周囲を高い堤防で囲んだ輪中として独立していて,織田軍は攻めあぐみました。

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  治水神社

 

 

 


   海蔵寺 平田靭負の墓 

 

 宝暦年間(徳川吉宗の子の時代)幕府から薩摩藩に対しこの木曽三川の治水命令が下されました。これが有名な薩摩藩の宝暦治水です。薩摩藩は揖斐川の網の目を堰き止める工事をしました。藩の財政難と失敗の責任をとって,担当した家老平田靭負や多くの藩士が切腹する悲劇を生みました。お墓は桑名市の海蔵寺にあります。慰霊の社が公園内にある治水神社です。

 


 明治のお雇い外国人にオランダ人デ・レーケという人がいます。来日して30年間日本の多くの治水事業に携わりました。明治政府は彼にこの治水事業をたくしました。デ・レーケは網の目状態の木曽三川を下流で完全に分流することで成し遂げました。その中心は長良川の分流工事でした。長良川は公園の上流域では木曽川に下流側では揖斐川に吸収されるような不安定な川筋だったのです。しかし,最も幅が狭い場所では三川を分離する余裕がありません。だから木曽三川の河道は長い区間にわたり陸地を削って人工の河にしたのです。図に削った陸地を示しました。現地を訪れれば,細長い堤が長良川の両岸に続くのがみられます。最も有名なのは治水神社から南に続く千本松原でしょう。長良川は河口で揖斐川と河床高さが同じくなり合流します。そして,河口から塩水が遡行しないように長良川河口堰が作られました。
 

      長良川河口堰

 

   

 網目状の河道         黄色の着色部が陸地を削って川にしたところ

 

 その長良川河口堰建設に市民団体が反対しました。生息する魚の行き来が阻害される河口堰建設は自然環境を破壊するもので『長良川の自然を守れ!』と。一時はその過熱紛糾ぶりは大変なものでした。当時の中部地方建設局(以下地建)の人達は,長良川は陸地を削って作った川なのに,自然を守れとはオカシイね,と思っていたけど表立って発言してことを荒立てようとはしませんでした。これをみた当時の地建のトップ竹村公太郎局長は率先して一切の情報を公開し,長良川河口堰の実態を世間に公表して河口堰に対する誤解を解きました。

 

       船頭平閘門

 

 

  その木曽三川公園の一部に『船頭平(せんどうひら)河川公園』があります。デ・レーケが水位差のある木曽川と長良川を川船が通行できるように建設した日本で最初の西洋式閘門(こうもん)運河が公園になったものです。前回パナマ運河を訪ねた話を投稿しましたが,訪ねる動機は船頭平閘門をみたのが切っ掛けでした。そして以後私は運河に興味を持つようになりました(この後も運河の投稿をする予定です)。デ・レーケはこの木曽三川事業の他淀川運河,立山治水等多くの事業を成功させ,帰国後日本政府やオランダ女王から勲章や爵位を与えられました。緑のダムという民主党政権時代に流行したスローガンがありますが,デ・レーケの考えでした。

 


 後年,オランダと日本の友好400年記念に,デ・レーケの子孫たちが祖父の事績を確かめに当地を訪れ,偉大な事績を目の当たりにし記念の像を建立しました。同じ像はライン川河口,故郷のオランダ・ゼーランド州コリンスプラートに有ります。私はアムステルダムを訪れた時,ゾークフリート墓地にデ・レーケを訪ねたことがあります。


   

     ゾークフリート墓地正門

 

  因みに,竹村局長はその後国交省本省の河川局トップとして日本の河川行政をリードし,現在も活躍されています。平成11年札幌において,社団法人全国地質調査業協会連合会の技術フォーラムが開かれました。ゲストとして竹村さんの特別講演「広重にみる日本近代文明の萌芽 -土地と水からの視線-」がありました。江戸時代の広重版画に描かれた当時の江戸風景と現代の考察でした。講演内容は著書PHP『広重の浮世絵を地形で読み解く江戸の秘密』に収録されています。

 

     札幌で講演して頂いた時の竹村公太郎さん


  講演の冒頭,全国の地質技術者の前で挨拶がありました。『自分は若い時分から地形地質については特に興味がありました。その師匠はD社の旧建設省OBの先輩技術者でした。役人になりたての私は川治ダム(注:栃木県川治温泉にある高さ140mのアーチダム)の担当の時から色々指導してもらいました。』と固有名詞で明言されました。実は,先輩竹村さんの入省と同じ年,D社に入社した私はその師匠(当時の上司)の下で川治ダムの調査をしていたのです。あの時の担当が30年の時を経て国交省の河川部門の初代のトップになり,今ここで講演してくれるという巡り合わせに私は驚き,感動したことがあります。
 後日,引退してフォーラムに出られなかった師匠にその時の話を伝えました。遠くを見ながら当時を思い出し,『走れコウタロー』と皆から可愛がられていたなぁ~,と嬉しそうでした。
 皆さんも機会があれば,一度彼の著作をご覧になってみて下さい。