ピッグス湾事件

 平成24年4月28日,私はピッグス湾事件(キューバでは,プラヤ・ヒロンの戦いと呼ぶ)の戦場にいました。ピッグス湾(西語で,バイア・デ・コチノス=豚の入江の意味)は,ハバナ東南方約150kmのカリブ海岸にある小さな入江です(写真1)。


 その日は朝8時,ハバナのホテルに,現地旅行社の女性ガイドのモニカと運転手イジェルモが迎えに来ました。同行は,アルゼンチンの小学校教師マリア(ブエノスアイレス市),メキシコの小学校教師セシリア(グアダラハラ市)。彼女等2人と一緒にキューバ縦断の旅に出ました(写真2)。

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 ハバナからの道路沿いは,肥沃な黒土からなる平坦地と砂糖黍畑や果樹園が続き,道にはゴミ一つ見あたらない清々しい国土でした(写真3)。ボリビアの黄色い,風が吹きすさんで土壌のない,寒々とした光景になれた私には,とても癒される風景でした。車中,私はボリビア人です,と自己紹介をしました。マリアは嘘だろうと私を指さして大笑いするのです。ボリビア政府発行の身分証明書を出して,偽だけど,と私。ブエノスに行って,カメラを盗まれ,偽札を掴まされた話をマリアに話したら,とても驚いていました。
 さて,旅行の第一の目的地はモンテ・マール自然公園ですが,ここがピッグス湾事件の戦場だとは事前に調べておきました。

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ピッグス湾事件は米国に支援され,キューバ革命転覆を謀ったキューバ亡命人による反攻作戦です。反攻作戦は失敗しました。(写真4)写真5は内陸にあるキューバ軍拠点オーストラリア砂糖工場にたつ戦の記念碑です。碑の壁には「ヒロン海岸の戦いの時,フィデル司令官は此処にいた」とかかれています。砂糖工場とピッグス湾を結ぶ南北の道路沿いが主戦場でした(写真6),道端に輪にワニ動物園が併設されてあります(写真9)。私が見た戦場は,道路の東部はモンテ・マール公園の湖沼湿地帯で(写真7),戦いに不向きな地域でした。海岸に至る道路上には今も戦士の墓標が各所に見られます(写真8)。

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 戦いは中米を発した侵攻軍の爆撃機によるキューバ空軍基地の爆撃で始まり,侵攻軍のピッグス湾上陸と攻勢,砂糖工場駐屯キューバ部隊の反攻とマタンサス民兵の増援,侵攻軍の計略の退却,乗せられた反攻軍の押し返しを経て,キューバ軍は背後に落下傘部隊を降下されて退路を断たれ,全滅の危機に瀕しました。この危機に,カストロは最初の爆撃で辛うじて残った練習機数機に爆弾を積み,湾で背後を支えていた侵攻軍支援艦船を攻撃して壊滅させ,侵攻軍を動揺させました。その後カストロ部隊は退路を断っていた落下傘部隊を挟み撃ちにして撃退し,キューバ軍は起死回生の勝利を得るのです。

  マリアは戦争が大嫌いです。だからこの記念碑も無視,キューバ革命の歴戦地も無視。博物館にも入りませんでした。

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そして小学校を訪れ,鉛筆やボールペンを地元の小学生に配っていました(写真11)。優しい先生なのです。私にもブエノスでの災害の償いと言って,色々食事を奢ってくれました。旅行の最終日のホテルで,私が撮影した写真を彼女にあげました。飛行場での別れ際,イママデ,アリガトウと日本語で言ってくれました。
 セシーは割り切っていて歴史は歴史として受け入れ,色々見学していました。旅の最終日早朝旅を急ぐシシーと別れましたが,その後,ハバナで友人と散歩していたセシーに偶然声を掛けられ,再会しました(写真12)。
 2人とも優しい先生達でした。