ゲバラ兵士の生き残り(1)


   この文を読まれてる皆さんは,チェ・ゲバラをご存じですか? 
そう,1959年にキューバ革命を成功させ,1967年(昭和42年)ボリビア軍に殺された英雄・革命家です。昭和42年は私が大学に入学した年で,当時激しかった学生運動を推進している人達の英雄でした。だから,私は学生運動家と同じ種類の,異様に陰鬱な印象をゲバラに感じていました。

 

    

        

 

       

 

 しかし,南米に来て彼の足跡を訪ねてみると,ゲバラの一生は偶然と時代が産んだ明るい青年の冒険の生涯だったことがわかりました。もし冒険旅行の一つでも欠けたら最終的にメキシコでカストロ兄弟に巡り会わなかったし,キューバ革命はなかった,と思います。

 ゲバラ廟のあるバジェ・グランデでは,市庁舎内にある博物館(写真3),遺体が洗われた病院の洗濯場(写真4,5),ゲバラ廟(写真6,7,8,9,10),ゲバラの部下達の埋葬地(写真11)に行きました。博物館では直前まで来ていた服,サンダル,各種写真が展示されていました。

 

             

 

      
 

      

 

 

      

 

      

 

      

 

      

 

      

 

博物館の受付に聞くと,全部の案内料は60ボリ(600円),市内のタクシー代は20ボリ,ゲバラが銃殺されたイゲラ村往復は250ボリでした。私に案内を申し出た市役所職員風の男に100ボリ渡したら,20ボリぼられました。更に彼が呼んだタクシー運転手はイゲラ村往復350ボリというのです。20ボリをぼられた上,また吹きかけられた私は切れてしまいました。私の怒りに驚いた運転手が,では300ボリで,と又ふざけたことを言うので,怒って降りました。だから翌日イゲラ村に行くために雇ったオンボロタクシーは別の運転手でした。

 

       

 

       

 

そのタクシーは日本車の右ハンドルを外し,ボリビア用に左ハンドルに移し替えたもので,助手席の前はハンドルの穴がそのままに放置してありました(写真12)。不安に思っていると途中でタイヤがパンクし(写真13),運転手はパンクの修理をしました。空気入れは自転車用のものを通りがかった車から借りたものです。
 私は,イゲラ村に行く途中,その運転手に聞きました。ボリビア人はゲバラが好きなのに,なぜゲバラは失敗したのだと。少し間をおいた答えが,ゲバラは旅人(よそ者)だから,というものでした。その答は,ゲバラがキューバを去る際カストロに宛てた手紙の内容そのものでした。

 

       

 

       

 

       

 

       

 

 イゲラ村で銃殺後,病院で清められた遺体が埋葬された墓地は,バジェ・グランデの飛行場脇にあります。ゲバラ廟の内部は,発掘時の墓穴が保存され,墓穴には名前が記された7個2列の墓石があり(写真8,9),左方下端にある最大の墓石がゲバラのもので,少佐の一つ星が付されています。奥に黒色の石に,ゲバラの言葉 ”社会革命家が革命の戯画を作ること以上の変化は存在しない。そう,その話にはアメリカの貧困層を考慮に入れなければならない。” のまわりに,銃殺された37名のゲリラ写真が掲げられてあります(写真10)。イゲラ村の入り口にある銅像(写真14)を過ぎると,ゲバラが最後の夜を過ごした小学校跡(写真15)があります。当時の建物を整備して新しくなっています。中には若いゲバラの写真に世界中から写真と寄せ書きが来ていました(写真16)。ここで,ポーズ写真を撮りました(写真17)。


(写真が多いため,その2に続く)