明日は、大震災から3年の日、ですね。

私、育ちは栃木ですが、母の実家が墨田区でして。
出世の地もそこでして。
今、上京して、やっぱりそこらへんに住んでいます。
毎日スカイツリー見て会社に行ってます。

そうするとですね。
3/10は、東京大空襲の日、なのです。

その日の死者は10万人。
どれだけ凄まじかったかは、想像はつきません。

祖母は、その頃、高校生でした。
その夜も空襲警報が鳴りました。

空襲は、それまでに何度もありました。

祖母の家は埋立地のため、すぐに水が出てきてしまうため
あまり大きな防空壕は掘れなかったそうです。
だから、畳を重ねまして、その中に潜って南無妙法蓮華経を
曾祖母は唱えていたのだそうです。

「畳重ねても意味ないよなぁって当時から思ってたんだけど。」

うん!そのツッコミはその当時に入れなきゃダメだと思うぜ、ばあちゃん!

しかし、その時の空襲は明らかに違っていたのでしょう。
曾祖母は、「荒川に逃げる!」という結論を下しました。

で、曽祖父は近所に触れ回る役目もあったらしく妻子を置いてとっとと駆け出したらしい。

ダメじゃん、爺!(→半世紀以上経ってもばあちゃんは未だにコレに怒ってる)。

怖さと混乱で「防空壕に行こう」と祖母は言いましたが、曾祖母は断固拒否。
明治の女は強かった。荒川まで走り出したのです。

既に燃え始めた街を小学生の従兄弟の手を引っ張って走った祖母。
悲鳴と炎。道に転がる死体を幾つも飛び越えました。
途中、子供を背負ったまま亡くなっている母親を目にしました。
背中の子供は生きています。
その時、通りすがりの人が、助けられる赤ちゃんだけを抱えて走っていきました。
「あの赤ちゃん、どうしたのかな。」と祖母は未だに口にします。

もうだめだ!と思っても、先頭を行くのは関東大震災もくぐり抜けた明治の女!
なんとかかんとか荒川まで逃げ切った祖母たち。
東京が真っ赤に燃えるのを見ていました。

夜が明けると、そこには何もなくなった東京。
荒川から、綺麗に富士山が見えたといいます。
ヘタリ込みながら、その光景を見たのだと。

帰るとたまたま家上空に落とされたのが不発弾だったらしく
家は燃えずに残っていました。
一人が落ちた不発弾の下敷きになったらしく、命は助かったものの足を失ったと。
防空壕に逃げた方々は亡くなっていたそうです。
翌日、祖母が隅田川をのぞき込むと、
火事から逃げるために飛び込んだ人たちが流れていました。

今では、そこにはスカイツリーが建って観光地になりました。
あの日、祖母が川をのぞき込んだ橋には、たくさんの観光客がカメラを構えています。
静かになった水面に移るスカイツリーの写真を楽しげに撮っています。

大空襲から69年経ちました。
遠くない将来に戦争の記憶を持つ人間はいなくなります。
うちの親戚でも、その当時のことを話せるのは遂に祖母で最後になりました。
個人的にはもう何度も聞いた話だけど語り伝えていかなくちゃならない話もあるかと。
3月11日を体験した人間が、知らない世代に話していかなくちゃいけないように。

近所に慰霊堂があります。
会社終わりで真っ暗だったけれど、お参りに行きました。
手を合わせても何言っていいかは分からなかったけど。
帰り際、入れ違いでお参りをする人にすれ違いました。
たぶん、40代。
彼も親や祖父母の世代が空襲の体験者なのだと思います。
経験したことないけど、忘れちゃだめだと思ってる人なんでしょう。



暗い話でごめんね。