「一声二顔三姿」
元は歌舞伎役者の良さを表す言葉らしいが、役者全般に当てはめられる。
役者の魅力、
まずは声。声の音色やセリフ回しの良さが第一。
次に顔。顔の表情や表現力。顔の造作の良さに留まらず、いわゆる顔の魅力だ。
そして姿。全身の有り様、存在感、身体による表現や演技全体のこと。
*ここでは、個人的理解も含めて書いております。ご了承ください。
顔が一番、あるいはそれだけ、のような役者が多い中、
まさにこの言葉がぴったりの方が、いた。
蟹江敬三。
過去形なのが、つらい。
名脇役と言われたが、
「ワキ」で光る、とか、そういう言葉では全く足らず、
画面に現れると、別の世界が見えた。
脇役とか主役とか、
そんなものは見てる側にはどうでもよいことで、
とにかく、登場が待ち遠しい役者だった。
ちょっとしゃがれたような、特長ある声。
独特の顔つき。
斜に構えたような姿。
癖があり、アクがある。
嘘だらけの人のようであり、
逆に本性むきだしのようでもあり、
結局、なんだかよくわらかない、心の闇のような。
訃報を知って、愕然。
もう、いくら待っても、出てこないのか・・・
蟹江敬三の「声」の魅力に気付いたのは、
番組「ガイアの夜明け」。
番組全体に流れていた妙なインパクトや面白さは、
蟹江敬三のナレーションが可能にしていたのだろう。
あまりにも番組と一体化していたので、最初は気付かなかった。
声だけで登場するナレーション。それが目立つのは意味がない。
少し前観たテレビドラマで、
ナレーターの表現が映像より前に出ていて、耳にうるさいのがあった。
某国営放送のドキュメンタリー番組でよく聞いた声だが詳しくは忘れた。
声がよければ良いというのでもないし、
語り口がうまけりゃそれでよい、というものでもない。
ナレーションについてはよくわからないが、
作品なり番組なりそのひとつの「場」を共に作る上での「役割」というものが大切なのではないか。
その「場」が
「ドラマ」なのか「ドキュメンタリー」なのか、によっても、
声の存在の仕方は違うはずだ。
ガイアでの蟹江敬三の声は、番組とひとつになっていた。
番組のサイトでは、
蟹江さんは番組に魂を吹き込んだ、というように書いてある。
まさに、入魂した声だったと、一視聴者として思う。
そのサイトに掲載されている写真の蟹江敬三は、赤いシャツに白髪。
役者として画面で見るのとは、別だ。
プロの仕事人だった蟹江敬三。
敢えて敬称略で呼ばせてもらいましたが、本当に好きでした。
鬼平での小房の粂八、特にファンでした。
神社に、一本のしだれ桜。すうっと静かに、咲いていた。
蟹江敬三さん。
合掌。
森 裕喜子