日本人は、公の場で発言することにかなりの躊躇があると感じていた。
これはどうしてなのか。
思っていても自分の意見を言わない。質問があるはずなのに、質問しない。
そして、その場が終わってから、ぶつぶつ言ったり、批評したりして帰って行く。
学会に参加した場合も同様だ。
参加者の知識は一定レベルのはずがないのに、
肝心の質疑応答の時間にはハイレベルの人しか質問できない雰囲気がある。
それこそ「学ぶ会」なのに、これでよいのか?
学会からの帰りは、いつもそう感じていた。
一般セミナーや講演、ましてや社内の会議でも、
積極的に質問が出るというのは、なかなか日本ではお目にかからない。
公の場で、自分の意見や考えを言わない、言えないのは、なぜなのか。
理由としてこんなことが考えられる。
・日本人特有の奥ゆかしさ、控えめ、非積極性。または思考力、発信力の低さ
・正しいことを言わないといけないという思い込み
・参加者としての知識の不足のせい、勉強不足
書き出してみると、これらすべては「学ぶ側」の責任。
しかしこの本を読んでわかったのは「教える側(聞く、受け止める側)」にも責任がある、ということだ。
ヨーロッパの大学では、
入学したてのような若い学生でも、意見を言ったり、質問できるよう、
教える側の体勢ができているという。
著者北川氏は以下(青文字、略してあります)のような具体例を述べていた。
若い学生が、それなりの知識で一生懸命話す。
それが例え稚拙な考え方であっても、教授は黙って最後まで聞く。
聞き終わると、話の内容を分析し課題を明確に伝えてくれる。
「あなたの話の△△の部分で、この視点が抜けている。
xxという本を勉強してみてください。
そして君の意見がどう変わったか、一週間後にまた来てください」
ふむ~!
大変物理的論理的な、教授側からの返信!
学生の稚拙さを批評するでもなく、しっかりした分析をしている。
これだったら、何度でも質問に行きたくなるなあ。。。。
良い悪いで批評せず、現状として受け止める。
その現状から課題を導き出し、対応策を打ち出す。
よく仕事で使う考え方のステップ「現状→分析→対応策」と同じだ。
このように、
教える側の姿勢がシステムとしてできているから、
何も知らないレベルの学生でも、そのレベルなりの質疑応答で積極的に発言できるのだ。
教授はこのとき、自分の経験値で学生の意見を判断していないところも、ポイントだ。
「私があなたの頃には」とか「普通はそういう考え方はしないよ」など
自分の持っている世界だけ=経験だけで相手を判断して終わり、ではない。
残念ながら現状の日本では、
この段階でやりとりが終わることが多いのではないだろうか。
発言することに躊躇が生まれて当然。。。。(悲)
「この学生はなぜこう考えるのか」という視点から
学生の現状を物理的に見て、広くマクロとミクロ両方のファクトベースで考える。
だからしっかり分析ができる。
教える方もまさしくプロフェッショナルでないと、こうはいかない。
*
こういった学び方を子供の頃からしていれば、どれほど勉強が楽しいだろうか?
ひとつの正しい答えを記憶させる教育ではなく、自らの考えを持ち、それをしっかり発信できる。
受け止める側は「感性と論理」そして「マクロとミクロ」で聞き、分析する。
こんな中から新たな発見や学びが生まれ、世界が活気づく。
互いが意見をしっかり言い合い、聞き合える世の中!
どれほど豊かなことか!
森 裕喜子