(スピーチプレゼン関連本を読んだ個人的な覚え書きです)
スピーチプレゼン力を初等教育時から学ぶことは大変に重要。
私が子供だった頃にはなかったが、
現在は小学校の授業にも盛り込まれるようになった。といっても
、まだまだスピーチプレゼンそして広く「言葉」に関する教育において
日本は立ち遅れている。
東京都では猪瀬知事肝入りの「言葉の力再生プロジェクト」を通して積極的取組みが行われている。
著者北川達夫氏は、
そのプロジェクトにも関わっているフィンランド教育の専門家。
フィンランドは、
PISA(OECD生徒の学習到達調査)の結果でもわかるように、教育の先進国である。
http://www.oecd.org/pisa/
演出家で言語の教育に携わっている平田オリザさんとの対談形式の本で、大変読みやすかった。
こんなような部分があった(以下は略文)。
ヨーロッパの道徳教育では
「謝ること」と「許すこと」を小学校一年で習う。
そして、それらは義務ではなく、チャンス。
はっとした。
悪い事をしたらとにかく謝るもの。謝ることは義務。
知らず知らずにそう思っていたかもしれないことに気付いた。
だから「謝ることはチャンス」は、すぐにはよくわからなかった。
つまりこれは、謝るときにもその理由を考える、ということ。
自分で考えて「謝りたい」と思うなら、そうすればよい。
反対にそう思わないなら、その輪や仲間から外れるというリスクを伴うが、
「謝らない」。
すべては個人の考え方と決断、選択に委ねられている。
そして「謝る」を受けたほうも、その考えをわかって「許す」。
なんと、論理的。
*
こんなことがあった。
ある日、公園を散歩していたら、就学前くらいの子供二人が樹の細い枝を激しくゆさぶっていた。
そのままだと枝が折れてしまいそうだ。
子供たちのすぐ側には、それぞれの母親がいた。
年齢は30代前半くらいに見えた。
自分たちのおしゃべりに夢中で、子供の行動に注意を払っていない。
子供は枝で遊ぶことに夢中で、手加減を知らない。
そのままでは本当に枝が折れそうだったので、
私は思い切って母親達に向かって注意を促した。
「あの、枝が折れてしまうので。。。。」
すると、ひとりの母親が少々めんどくさそうに、子供たちにこう言った。
「ほ~ら。枝が折れるって怒られちゃった!やめなさい。」
子供たちは素直にやめた。
私はそのまま立ち去ったが、数百メートルくらいしてから、気になってもう一度振り返ってみた。
子供たちは再び枝を揺さぶって遊んでいた。
私は悲しかった。そして、怒りが湧いて来た。
その母親達に対して、である。
誰かに怒られるから、枝を揺するのをやめるべきだと注意した母親。
ズレている!
仲良く樹と遊ぶのはよいけど、ひどく揺すると枝が折れるかもしれないよ、
樹のことも考えてあげようね。
そう教えることができたのではないか。
とっさに母親の口から出た言葉「怒られた」は
面倒なことを他人に持ち込まれたくない、うるさいな、という感じだった。
この日、子供たちは何を学んだか。
自分たちが好きなことを好きなだけやっていると、知らない人が怒って母親に注意される。なのか。
樹と遊ぶと楽しいのに怒られる。なのか。
あるいは、何も学ばなかったか。
見知らぬ人の思考回路を否定したくはないが、
この母親が「なぜ」を考えた形跡は、見えない。
「なぜ」を一度考えられたなら、
「怒られるから」ではなく「樹の枝が折れるから」と言っただろう。
「面倒だ、とにかく早く終わらせたい」という気持ちがあっただけなのだ。
「とにかく謝っておけば済む」に非常によく似ている。
行動を起こすとき、根本的な「なぜ」を「考える」ことが大切だ。
ましてや、
子供への大事な教育のタイミングで、浅はかな行動をしてよいはずがない。
問題に対して明確に「考える」ことが出来なければ
本当に何が問題なのかを発見することが出来ない。
自分の意見も言えないし、自分らしく行きて行くことも、出来ない。
それで、いいのか。
謝ること、考えること。これらは、機会=チャンスでなのである。
JUDY