東大寺のすぐ裏手にはなんと春日大社!
 
有名らしいけれども、知らなかった。
 
どうやらここには山がある。
 
春日山といって、御神体の山らしい。
 
標高は約500メートル。
 
仏教伝来前の、日本にいた原住民の信仰を感じる場所だ。
 
 

 

美しい赤色。

 

立ち並ぶとより一層その効果が引き立つ。

 

列柱回廊といえば古代ローマのものが好きだ。

 

雄渾なコロッセオ、パルテノンの荘重さ。

 

日本の聖地にはどこも奥深い森がセットになっている。

 

自然との調和を旨とする日本独特の感覚だ。

 

 

 

 

 
春日大社には灯籠が立ち並ぶ。
 
物凄いかずだ。
 
 
あ!!
 
ここにもバンビが!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても春日大社の木々は不思議だ。

 

いや、むしろ異常。

 

 

どうしてこんなにクネクネしているのだろう?

 

 

この木にしても。
 
ずいぶんクネクネしている。
 
春日大社の木々は有名なようで、竹柏(なぎ)の木が天然記念物に指定されているとか。
 
ナギ?というと馴染みがない名前だ。
 
熊野神社ではナギが御神木とされてきたそうで、この春日大社のナギは少なくとも1000年は前に植林されたらしい。
 
これも古来の日本人のことを感じさせるファクターである。
 
 
仏教伝来前のニッポン・・・
 
なぜそこにこだわるのかというと、日本書紀・古事記が、本当のことをそのまま描写しているかどうか疑問だからである。
 
天皇家のルーツは多分トライ人だろうと思うし、日本文化はチャイナや諸外国の文化を取り入れて独自の発達を遂げた誇るべきものだと思う。
 
ルーツが気になる。
 
だから私は京都・大原にこだわっていて、それは、日本の音楽・声のルーツが京都大原にあるからであるが、同様にイタリアにもこだわっているのだ。
 
もちろんルーツなんて知らなくてもいいし、そのルーツになった場所にいなければ声や音楽がやれないわけではない。
 
どこにいようと自分は自分。
 
表現したいようにすればいい。
 
でも、金魚が海に放り込んだらすぐに死んでしまうように、金魚には金魚鉢がベストな環境である。
 
その文化のルーツとなった場所には、ルーツになったなりのワケがあるのである。
 
私は無闇に物事の難易度を上げたくないのだ。
 
金魚だから、金魚鉢にいる。
 
その方がラクでリラックスできるし、無理しなくてすむから。
 
 
 
京都大原という場所にいるとそれを強く感じるが。
 
まず、静かであること。
 
耳をすませる環境としては、雑音がないのが望ましい。
 
そして立地。
 
大原は比叡山から徒歩でも2時間くらいで到達できる。
 
近い。
 
それに京都の街中からも、まぁ歩いたら3時間くらいはかかると思うけれど、当時の感覚からすれば近いと感じるだろう。
 
近い。
 
つまり、当時の仏教のメッカであった比叡山と、日本一の大都会のちょうど間くらいにあって、それでいて穏やかでのんびりした環境に恵まれているのである。
 
大原は小さな山間の盆地だから、広すぎず、狭すぎない。
 
それに川も流れているし、森もある。街道も通っている。
 
皇族、それに鴨長明さんのような作家が住み、今でも、これは地元の人の間での話だが、人間国宝の芸術家の別荘がいくつかあるらしい。
 
私の知り合いの大学教授もここに別荘を持っている。
 
イギリス貴族出身のベニシアさんもまた。
 
俗世と浄土。
 
その反対の世界にあるような場所なのだ。
 
さて、話を春日大社に戻そう。
 



鹿たちかわゆい

 
ぴょんぴょこ
 
うろちょろ
 
小さい動物たちがかわゆいと感じるのは、人間の本能らしい。
 
自然界では、小さいベビの動物は、最も食べやすいエサだ。
 
羊でも群の中で真っ先に狙われるのはベビと年寄り羊だから。
 
鹿にしてもコアラにしても、生まれたてなのにすでに自力で動き回ることができるのに、人間だけは全く無力の状態で生まれてくる。
 
なぜ?
 
 
信仰心を持った動物というのは聞いたことがない。
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人間だけが、春日大社だとか、バチカンだとかメッカだとかを作るのだ。
 
その一方で森ビルや東京タワーであったり、ペトロナスタワーやブルジュカリファのような建物も作る。
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信仰と利益の追求。
 
その両者は、一見全然違うものであるのに、大抵は密接に結びついている。
 
 
私はシンガポールやニューヨークといった都会が好きだ。
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たまには東京にも行きたくなる。
 
でも同時にオーストラリア・ウルルや、こういう日本の聖地も大好きである。
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信仰と利益は、結局エネルギーのことだから。
 
エネルギーは循環する。
 
与えること、そして受け取ること。
 
その黄金律をさらに輝かせるのが感謝である。
 
感謝というエネルギーは最強であるから。
 
感謝があればこそ、どんなことにも良い側面があることが理解できる。
 
事実には意味がなく、解釈することで、それは本人にとっての『事実』になる。
 
想っていることが、現実になっているのだ。
 
だから、どう想うか次第。
 
あなたがどうしたいか?
 
常に問われているのはそこだ。
 
世間が?コロナが?お金が?家族が?
 
そりゃ全部言い訳だよ。
 
都会には人の欲望、思念が渦巻いている。
 
自分の本心がわからなくなってしまって当然だ。
 
心が静かに整って、自分の魂と向き合うことができる時間が必要だ。
 
サーフィンにいく人もいるし、黙々と料理する人もいるけれど。
 
そうすればわかるだろう。
 
必要なことが。
 
結局は、覚悟。
 
そうしたい?
 
なら、そうすると決めることだ。
 
覚悟せよ。
 
あなたの持って生まれた才能が、世の中にますます分かち合われるように。
 
私は良い人の味方である!!
 
応援しよう。
 
覚悟ができたものだけ京都大原・相川道場へ来たれ!