感謝すること、されること | ウオッカのブログ

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自分が気付かないところで、誰かの進路や生き方に影響を与えていたことが、後々わかったりすることが、大切なことを何気無くやっていたのだと、嬉しさより責任の重さにどぎまぎしてしまうことがあった。
そして、それは逆もまた真なりで、誰かの何気無い言葉に力付けられたり、感謝してもし足りない経験をしたりもするのだ。

当時18才の免許とりたての自分が、四半世紀後になって感謝されるなどとは、そのときは微塵も想像しなかった。

「昔、ドライブに行ったときに○○って後輩を連れて行ったの覚えているか?」
友人が何年か前に久し振りに会ったときに聞いてきた。
「うーん、そんなことあったかな?
名前どころか顔も思い出せないけど」
「そうだとは思ったけど、後輩とこの前会ったときに、あのときの話が出てさ。
あいつ、お前に凄く感謝していたぞ」

自分は記憶を隅々まで引っ掻き回し、何か言ったかと思い出そうとしたのだが、全く出てこない。

「俺が遊びに行くとき連れて行ったら、お前気軽に車に乗せてくれてドライブに行ったろ。
あいつ、それが凄く嬉しかったらしくて、今でもあのときのこと覚えていてさ、お前はどうしてる?とか言ってたよ」

思い出せない自分は少し焦り、申し訳ない気持ちになってきた。

「あれからあいつ、車が大好きになってさ、バイトして免許取りに行って、今は仕事していて車に乗ってるよ」

それを聞いたとき、かあっと身体の中が熱くなって、胸がどきどき動悸を打ち始めた。
自分が何気無くしたことを覚えているだけでなく、感謝されるなんて、嬉しいというより、恥ずかしさが先に出てしまった。
これは大変なことをしたのかもしれないと、後輩に与えた影響をいろいろ考えてもみた。

そういうことは、自分にも確かにあると思い当たった。
何通りもの選択肢を、いろいろな人の言葉に影響を受けて、今現在まで来ることが出来たのだとも思う。
嬉しいときも、悲しかったときも。
最近では、直接会ったこともない人と簡単に繋がり、良いこと、悪いこと、いろいろな考えや思いが直ぐに伝えることが出来るようになり、言葉の重さや影響が独り歩きしてしまう。
しかし、その沢山の中から、信じられる者はやはり必ずいて、自分の支えや相手の助けになっているのだ。

一昨年の梅雨明けの頃だった。

肩凝りなんて一度も経験がないのに、何故か左肩が痛くて、痛み止めを飲んでも全然効果がないので、かかりつけの病院に痛み止めでも出してもらうつもりで出掛けて行った。
レントゲンでも撮るのかと思ったら、心電図を計るように言われ、検査を受けたところ、いきなりストレッチャーに乗せられて心臓の血管造影となった。
どうも全く考えていなかった心筋梗塞と言われ、その後三回にわたりステント施術を受けた。
その間十日間、ベッドで過ごしたのだが、会社は休まなくてはならないし、両親に心配は掛けるしで、自分のこれからのことも不安で、居たたまれない気持ちで入院していた。
手持ちぶさたにしていたとき、たまたま応援しているアイドルさんから、いつもブログを読んでくださりありがとうございます。とメッセージが届いた。
入院して初めて外界から届いた言葉に、どれだけ元気付けられたことか。
何気無くファンに送ったメッセージだったのだろうが、他人の思考だとか心や胸に響く言葉は、本当に何気無い一言なのだ。
それが支えあったり、重なりあったり、絡まりあって生きていくヒントや影響になっていく。
気付かないけれど、まだまだあるかもしれず、そしてこれからもあるかもしれない。
感謝をすることと、されても恥ずかしくない生き方を忘れないでいようと思う。