こんばんは。

YouTubeに手こずってなかなかレビューを書けない私です。

どんなに凝ってるの?

とか言われそうですが、これが何も凝っていない 笑

噛み噛みのコメントになっていて、それで撮り直しばかりやっています。

すみません。

まあ、どなたも待って下さってはいないだろうと思いますが、もう少しお時間下さいませ。

出来ましたら、こちらでお知らせします。






 

 

そんなことで足踏みしている私に、一昨日、朗報が入りました。

もう10年近く前に知り合った旧友の朗報が届いたのです。

その朗報は、私が作家を目指して入学した大阪文学学校でご一緒した岡田智樹さん。

彼が三田文学新人賞の佳作に入選したという知らせでした。

 

彼は、私が入学式で最初に言葉を交わした人。

たまたま席が隣で、同じクラスということがわかり、誰も知り合いのなかった私は、すぐに知り合いが出来て安心したものです。

そのころはまだ彼は30代後半のイケメン。

年代が違うのに、最初から気が合いました。

彼は高校の頃からずーっと小説を書いていて、既にもう彼独特の文体を持っていました。

小説のしょの字も知らなかった私にいろいろな本を紹介しては、文学の魅力を教えてくれた人です。

私は彼の書く独特の文体とその世界観が好きでしたが、なかなか理解して貰えないことが多く、彼は自分のオリジナリティーと評価の狭間で苦しんでいました。

 

それでもこの10年、彼は書き続け、自分の文体と世界観をずっと貫いてきました。

「多くの人と交わると自分の世界観が壊れる、自分のことを理解してくれる人がそれほど多いとは思わない」

「人の評価が欲しいのではない」

「誰にも理解されなくてもいい。理解して欲しいとも思わない」

 

そう言って、頑なに自分の文体と世界観を貫いてきました。

 

そういう彼に私は、言葉の重みと文章を書くということの責任感をいつも強く感じたものです。

「言葉を紡ぐ」

「文章を書く」

ということの重みと、言葉を選ぶことの重みを彼から学びました。

 

彼へずっと小説を書き続け、私は彼の世界観の溢れる小説をたくさん読ませて貰っていました。

それは文校を卒業してからも、長く細々と続きました。

 

彼の命を削るように紡いでいく言葉には、些細なメールですら、迂闊に送れないという重みを感じました。

でも、そういう世界観と厳しさは、どこかフワフワとした現代の価値観の中で、いつも凛とした佇まいを感じさせました。

 

 

オリジナリティーの確立は、必ずしも世間の評価とは一致しません。

どこにその着地点を求めるのか、

妥協するのか、

あくまでも自分を貫くのか。

 

これは作家の世界だけでなく、アーティストの世界にも通じるものです。

 

自分のオリジナリティーを確立したものだけが到達出来る世界。

そこがなければ、生き残っていくことは出来ません。

 

 

久しぶりに読んだ彼の小説には、読み親しんだ彼の世界観が根底にありながら、一層、文体表現に磨きのかかった丁寧な文章が並んでいました。

この丁寧に言葉を選び、紡いでいく世界こそが、言葉、文章を紡ぐものの責任だとあらためて感じました。

 

 

私は評論の世界に入って、よく言われるのは、

「音楽と文章の両方をきちんと勉強したんでしょう?」です。

「おそらく文章をきちんと勉強した人は、評論の世界には殆どいないんじゃないかな」

 

 

文学学校で学んだものは、私の評論の基礎を作りました。

自分の原稿を自分で推敲することや、筆力は、誰にも負けない自負があるほど、徹底的に鍛えられました。

しかし、彼から学んだことは、筆力でも執筆量でもなく、

丁寧に言葉を紡いで行くこと。

 

例え評論であっても、文章を書く人間としての責任は同じ。

言葉をチョイスする重みを感じながら、丁寧に言葉を紡いでいくことが大切だと、彼の受賞は私に思い出させてくれました。

 

 

久しぶりに交わしたメールには、

相変わらずの彼の優しさと厳しさが混在していました。

 

「書き続けること。毎日を丁寧に生きること。それが小説に繋がっている、ということを僕も松島さんも知っている」

 

どんな些細なメールでも丁寧に言葉を選んで書き送ってくる彼のスタンスに久しぶりに触れながら、

 

久しぶりに小説が書きたくなりました。