「自分」がいて、生きて暮らしていて

「意識」というものがあって

 

喜んだり、悲しんだり

悔しかったり、憤ったり

苦しかったり、ツラかったり

気持ち良かったり、意地悪かったり

寂しかったり、惨めだったり

得意になったり、朗らかだったり

愉しかったり、満足したり

羨ましかったり、落ち込んだり

安心したり、不安だったり

怖かったり、勇気が湧いたり

がっかりしたり、希望に燃えたり

屈辱を感じたり、猛烈に恥ずかしかったり

驚いたり、がっかりしたり

優しい氣持ちだったり、煮えたぎる釜のようだったり

怖かったり、疲れてヘトヘトだったり・・・・

 

します。

 

それが、心の特性です。

 

さまざまな感情や、心の状態を感知して

私たちは日々を送っています。

 

それぞれの感情や状態には

快いものがあり

痛みを感じるものがあり

不快で耐えられないものがあります。

 

できれば、快いものだけで日々を生き

不快な感情や状態は避けて暮らしたいものだ、と

思ってしまいますが

 

どうやら、感情や心の状態は

意識では選別できないみたいなんです。

本当に、残念です。

 

それらさまざまな感情を生み出し、感じている「心」はしかし

刻々と動いています。

 

ある出来事に遭遇して

例えば落ち込んでいた心も

長くて2-3日

早ければ数時間で自然とスッキリしてしまうことさえあります。

 

この例えを使うなら

考え方を変えたり、出来事の見方を変えることで

「それほど落ち込むことではないよな」と考えなおしたり

「落ち込んでいるくらいだったら氣持ちを切り替えて

次に向かう勇気を持とう」と思ったり

「新たなアプローチの方法を学んでやってみよう」と行動を起こしたり

 

それらは時に有効に機能し

暮らしを基の軌道に戻すことができます。

 

それは、人の「知恵」の力です。

動物にも、痛い思いをしたら二度とそこへは近づかない

などの知恵はありますが

人の知恵は、比べ物にならないくらい高度で発達しています。

 

私自身も、随分と知恵を養い駆使して

生活に支障をきたさないようにやってきました。

 

「知恵」には価値があります。

人の「知恵」の尊さに感動することもあります。

 

ところが、「知恵」によって切り替えられた「心」が

その後、どうなってしまうか?に想いを馳せるとき

私ははたと「人の持つ知恵、万歳!」の声を上げることを

躊躇いたくなるのです。

 

不快な感情や状態を生み出した「心」を否定して

快さに戻ることに「知恵」が成功したとして

 

その後、一切“あとくされ”なく

処理した「心」が清算されるのであれば

それは本当に万歳!です。

 

でも、どうなのでしょうか?

 

「心」が生み出し、意識が感知したその不快さは

「知恵」で処理すれば永遠に消え去るものなのでしょうか?

 

経験から申し上げて

本当に残念ではありますが

それは、消え去るものではないようです。

 

先日、唐突に一つの記憶が甦りました。

今現在、私は割合心穏やかに、愉しく、幸せを味わいつつ

毎日を送っているように感じています。

 

適度に忙しい暮らしの中で、とあるレッスンを受けているとき

その時していたことに全く関係なく、何の脈絡もなく

約30年前の記憶がまざまざと甦りました。

 

その記憶によって、激しく感情が湧き上がり、騒めき

動き、揺れ、心拍が早くなり、思わず震えるという

身体的な現象も現れました。

 

30年前のある日、私はその出来事に遭遇した瞬間に

心に沸き起こった感情や、違和感として感知したものを

「知恵」で封印したのだ!ということも

同時に思い出しました。

 

30年の時を隔て、それでもその「心」が感知したものは

まるで「現実」であり、「現在」でした。

 

24歳の私が“うまく切り替えた”つもりであった「心」は

30年後の今、リアルに少しも色褪せることなく

54歳の私に甦ったのです。

 

それで、私は今までも再三再四、降伏してきた

「心の働き」というものに

また改めて、何百回目かのサレンダーをしました。

 

もう、「心」に逆らうことはできない

「心」を無視することはできない

「心」を意識が望むように変えることはできない

「心」は全知全能なんだ、忘れることもないんだ

例え「意識」が忘れても、「記憶」が失われたように見えても・・・・

「心」は決して、何ひとつとして損なわれない

完全無欠な存在である

 

意識しか、意識できない私たちには

(何言ってんだか、と思いますが、当然ですよね)

それでも全員に一つの例外もなく

「心」があります。

 

「心」に収まっているもののうちには

「意識」がどう頑張って触手を伸ばしても到底届かない

「意識」には太刀打ちできない深遠さを備えている

そう考えないと、どうしても納得できない壁に

度々突き当たってしまいます。

 

人を「高度な知恵を有する生き物」と見るも

「神経系統からの受容器」として見るも

その場合、その時どきによっては正解でしょう。

 

それぞれの見方に拠って有効な

苦しみを解消する「手立て」が

人智によって開発されてきました。

宗教しかり、哲学しかり、医学しかり

認知行動療法をはじめとする様々な療法しかり、です。

 

ところが、それらは「心」に非常に近いところまで迫っている領域を含むものが確かにありこそすれ

「心」の持つ、他の何ものをも遥かに凌駕する

とてつもない【無限の英知】

(今の私にはコレ以外に適切な表現が見つけられないのです)

に委ね、導かれようとする道より、むしろ

 

「心」という扱いにくいものを

「意識」の望む方向へと

制御し、統制し、抑制する方法を模索しようとしているように

見えます。

 

そして何より、「心」を直接扱う学問として発展してきたはずの

「心理学」という分野が

他のどの分野より迷い、進む方向を見失い

その核心から遠いところを彷徨っているように

思われてなりません。

 

私のように、一介の民間カウンセラーが

世の心理学批判をするとは何事か!と自分でも思いますが

批判がこの記事の目的とするところではありません。

 

心によって悩み

心によって苦しみ

心によって病む

ヒトという生き物に生まれた一存在として

 

また、心理の世界に足を踏み入れてしまった一人のヒトとして

私もまた「心理学」の世界のほんの片隅に生きる人間として

悩み、苦しみ、考え、想い

そして、学び続けていきたいと思っています。

 

 

 

 

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