私たちが日々感じる感情について
解釈,説明しようとする時
キーワードとなるのは
「社会的生存」ではないか
という記事を,前回書きました。
今回は「社会的生存」の意味を
私なりの解釈で記してみたいと思います。
すべての命あるものは,いつかは肉体的に死を迎えます。
それは生物学的な死であり,生理的な死でもあります。
ある人が
「死ぬことは,そんなに怖いと思わないのです。
私にとっては,毎日を生きていくことの方がよっぽど怖い」
と語ってくれたことを,よく覚えています。
私は,この言葉を衝撃と共に
共感と同意の気持ちを持って聴きました。
私自身の中にも,確かに生理的な死よりもはるかに怖いものが
日々の暮らしの中にあることをうっすらと意識していたからです。
ただ,自分自身では
「死」そのものよりも生きていくことの方が怖いんだ,と
正面切って言葉にしたことがなかったので,衝撃は大きく
それ以来,この言葉を忘れることはありません。
コロナ禍があって
よく見知っていた有名人の死のニュースなどに触れると
生物学的な死が,常日頃よりずっと近くにあるように感じられ
やはり,肉体的に死ぬことも確かに怖い,とは思いましたが
しかし,それとは別の部分で
生きていく中で感じる怖さが
厳然と自分の心の根底に流れていることに
変わりはないのでした。
肉体的な死は,必ずいつかはやってきます。
それは生物である私たちにとっては,避けられないことですし
いずれは受け入れるべき現実となるときが来るのです。
自然の摂理であり,道理です。
死を迎えるとき,傍に誰かがいて手を握ってくれていたとしても
私たちは孤独です。
独りの個として,私たちは死んでいく以外にない。
この孤独もまた,避けることのできない事実です。
こんな想像をしてみると,とっても悲しい気持ちになりますが
どこか気持ちは静かです。
それは,しょうがないな…
その瞬間が来たら,受け入れることしか,私たちにはできない。
一方,気持ちが荒れ狂う波のように逆巻き
とてもじっとしていることができない程の
恐怖の感情が湧き上がることがあります。
それが,生きていながらにして感じる
「社会的な死」なのではないか?と私は考えています。
どんなに孤独を愛する人でも(スナフキンでも)
人間である以上(スナフキンは人間ではありませんけれども(^▽^;)
人との関わりの中で生きるように
この社会はできています。
人が社会を作ったとも見えますが
社会的な生き物という私たち人間の性(さが)に沿うように
この社会は出来上がっていったのだと思います。
社会の中で,肉体的に生きながら「死」んでいくとは
いったい,どんな状態なのでしょうか。
…………………
自分以外の,この世界にいるすべての人から
徒党を組んで,けなされ,批判され
「ダメなヤツだ」「イヤなヤツだ」と軽蔑され
「お前のあの時のあの行為は許されないぞ」と糾弾され
見下され,見捨てられ,無視され
誰一人として,味方になってくれる人のいない状態
果ては,ここに自分が存在していることすら
誰からも気にされず,気づかれることさえない状態
助けを求めて泣き叫んでも
ちらと一瞥を投げられ面倒くさそうに嘲笑されるだけ
楽しそうに快さげに,仲良く喋り合ったり,笑い合ったりする
たくさんの人々がすぐそこにいるのに
自分に気づくと,眉をひそめながらニヤリと意地悪な笑みを浮かべ
そそくさと立ち去るその際に
仲間同士で目くばせしている
「うっかりイヤな場所に来ちゃったね」というように…
非常にショッキングですけれど
これが「社会的な死」の象徴的な一場面かと想像します。
学校での壮絶で陰湿な「いじめ」は,これに非常に近い。
未分化な子どもだからこそ,人間が何をもっとも怖れ苦しむかを
観念ではなく,感覚的によく知っているのだと思います。
非常に残酷ですね・・・・。
先生や,家族や,その他の誰か一人でもいいのです。
徹底的に最後まで味方になり切れる人が必要です。
「いじめ」問題に話が流れていってしまうと
キリがなくなってしまうので,話を戻します。
学校のクラスという枠を,全世界とし
クラスメイトを,自分以外のすべての人類とし
子どもが,大人になっているこの自分として
人が,「肉体的な死」よりもずっと恐ろしいと感じるのは
この「社会的な死」なのではないかと思います。
感情が,しかも激しいネガティブな感情が湧いてきて
どうしようもないという時
その背後にあるのは
この「社会的な死」への恐怖ではないかと考えています。
感情が生起するのは,「社会的生存」を希求するという
私たちの生物学的な特性に由来するのではないでしょうか。
他者といい関係で繋がっていけたら「安心」
自分の存在や行為が人の役に立って感謝されたり
行いや業績が認められて褒められたら「嬉しい」
人の温かさや優しい気持ちに触れて「安堵」する
気の合う友人とお喋りをして「うんうん,そうだね」と言い合って「楽しい」
誤解され,遠ざけられたら「悲しい」
誰からも関心が払われなければ「寂しい」
不当に見下されたように感じると「怒り」が湧き
分かり合えて当然の振舞いをしているのに通じないと「苛立ち」
あー,今日も一日頑張ってよく働いたなと感じて「快い」
人からどう見なされ,どう思われるか
他者とどんな関係を作りつつ暮らしているか
社会で自分がどんな役割を,どのように果たせているか
これらは,人間にとって非常に大きな問題なのです。
これらの要素が日々の生き心地を決定していると言っても
過言ではない程に。
「社会的生存」の確認によってポジティブな感情が生起し
「社会的な死」の恐怖が,ネガティブな感情に結びつく
というふうに言えるのではないかと思うのです。
誰に何と思われようと,自分がよいと思うことをする
それで満足だし,充分嬉しいし,私は快い
こんな境地も確かにあるでしょう。
しかし,こう感じている人にも
「仲間外れは悲しいし,つらい」という気持ちはあるはずです。
もし,この気持ちさえないとするならば
それは,あまり人間らしくないな,と感じられてしまいます。
先程書いた「社会的な死」の象徴的場面は
頭で考えれば,現実にはありそうもないことだとわかります。
誰か一人や二人は,自分に気持ちを掛け
思いやってくれる人はいそうだし
全世界が結託して,自分一人を除け者にするなんて
「トゥルーマン・ショー」じゃあるまいし。
(考えてみれば恐ろしい設定の映画…💧)
現実にはあり得ないので
実際,ほとんどの人々はこの恐怖に無自覚です。
でも,誰もがこの恐怖を心の奥底には持っていて
何かショッキングな出来事に直面した時に
激しい情動・感情に見舞われ
ふとこの恐怖の一角に意識が届くことがあります。
しかし,日常的にこの根源的な恐怖に怯えていては
生活がままなりませんね。
一挙手一投足が不自由になります。
意識から外して,「ないもの」として暮らしていくのが
方略として正しそうです。
一方で
この恐怖をとてもリアルに,身近に
常に感じてしまう人もいます。
そして,日常生活に支障をきたし,困っています。
実際には起こり得ないことに怯えて
現実生活に困窮している人のことを
普通の人の視点から解釈しようとすると
「感情・情動の暴走」と見えたり
「過剰に敏感で,心配性」と解釈されてしまいます。
(最近はHSPなどという概念も言われていて
生得的な気質だということになっているようですね。)
そうすると,前回の記事で書いたように
感情を司る脳の部位は「原始的な脳」だから
もう現代の環境には適さないシステムなんじゃないか
という仮説なども出現しようかというものです。
私は,そうではないと思う,と書きました。
「社会的な死」に激しく恐怖しながら
「社会的生存」を求めて,厳しく自分を見張りながら
過剰適応して生きている人々には
必ず,その恐怖を身近に感じるだけの背景があるのです。
これには,例外がないと私は思っています。
その背景にあるものの中で,もっとも大きな割合を占めるのが
この世で,一番信用し,頼りにしなければ生きていかれない対象に
ひとりぼっちにされた経験です。
気持ちをわかってもらえず,放っておかれたり
助けを求めたときに面倒臭がられたり
さしたる理由なく責められたり
何をどうやっても「お前がいけない」と怒られたり
落ち込んでいる時,さらに心の傷をえぐられたり
お母さんとの間で,そんな経験をして育った人にとっては
全世界が自分を忌み嫌って攻撃してくるという「フィクション」は
とてもリアリティがあります。
感情システムは,まったく正常に機能しています。
不必要な暴走などではないのです。
その人が「社会的生存」を脅かされた経験をもとに
この世の中を生きていこうとするなら
油断せず,周りに合わせて,自分の欲はできる限り抑え込んで
慎重に「これで本当によいか?安全か??」を繰り返し自問し
失敗を極端に避けようとしながら生活するのが
最善の防衛策なのですから。
過剰に敏感で,過度の緊張を抱え
恐怖と不安を基盤として,日常生活を頑張って営んでいる人の
苦しみの感情には,いかなる背景があるのか
それを正確に見立て,理解することが
臨床心理の重要な責務の一つだと思っています。
