アンケートの受付は終了いたしました。

多くの方にご協力を戴きましたこと

厚く御礼申し上げます。

 

本アンケートは予備調査となります。

本調査実施の際は,またここでご協力を

お願いすることになるかもしれません。

その節は,なにとぞよろしくお願いいたします。

 

 

現在,研究論文に取り組んでいます。

研究のための大切なデータとさせて戴きたく

アンケート調査へのご協力をお願いいたします。

 

コロナ禍もあり,WEB調査が推奨されており

SNSなどでにおける回答協力の呼びかけが許可されました。

 

対象は30歳以上の方で,無記名での回答です。

ご協力いただければ,大変嬉しく思います。

 

 

調査用グーグルフォーム➡

 

 

ブログ記事を書く時間的,心理的余裕がなかなか生まれず

今年に入ってから,またまた更新がパタリと途絶えているにも関わらず

過去記事を多くの方に読んで戴き

また読者登録をしてくださる方も時々いらっしゃって

本当にありがたく,またどこか申し訳なく思っていますm(__)m

 

現在は,セッションの傍ら,学生をしておりまして

論文執筆の準備にかかっていたり

大学院入試に向けて受験勉強していたりで

とにかく毎日毎日,長文を書き続ける日々です。

 

とても楽しく,充実はしていますが

ブログに向かおうとするきっかけを逸してきてしまいました。

 

私のブログ記事は,とにかく一回一回が結構長くなってしまうので

更新しようとすると一日がかり…というのも遠のく理由の一つです。

 

せっかく読みに来てくださる方もいるのだから

長文に疲れたら,そうだ,短文を書けばいいじゃないの,と気づきました。

 

そんな訳で,今日は短い記事を書きたいと思います。

 

…って,すでに前置きだけで長いですけれども(^^;)

 

 

タイトルにある

「生きることは修行,この世は道場」というフレーズですけれども

20代半ばのある日,バイトに向かう電車を待つホームで

ふと頭に浮かんだものです。

今から30年近く前の話ですが

その瞬間のことを,私はなぜか鮮明に覚えているんですね。

 

何かの本から拾った訳でも

誰かがこう言っているのを聞いた訳でもないのですが

唐突にこのフレーズが頭に浮かびました。

 

「生きることは修行なんだ。

そして,この世界はその修行をする場,つまり道場なんだ」

 

この考えは,当時の私に実にしっくりときました。

こう考えれば,今自分が生きていることの整合性が担保される気がしました。

そして,この考え方に沿って毎日を生きていこうとすれば

ほんの少し安心できるし

何より,自分が生きている意味に納得がいくではないか,と

そんなふうに感じたのです。

 

それ以降,修行に疲れ果てて家に帰りついた途端1㎜も動けなくなることはしばしば起こりはしましたが

基本的に,この「修行-道場説」は,私の人生を支え続けてくれました。

 

 

そして,長い時間が経ち

修行だけでは乗り越えられない壁,すなわち

私にとっては「不治の病」を宣告された時から

「修行-道場説」はその効力を失っていきました。

 

結局,病気をきっかけにカウンセリングを受けて

私の病気は回復したのですが

元気になった今の私が,過去の私を救ってくれていた

「修行-道場説」を振り返った時に

湧いてくる想いは

 

「いやいや,生きることは修行なんかじゃないよなぁ。

この世は,楽しいこと嬉しいこと心地よいことがたくさんあるし

時には苦しいこともツラいことも悲しいこともあって

それはそれはとっても彩り豊かな場所だよ」

 

という感じです。

 

人生において,修行が必要になることは確かにありますが

その修行は生きていることの中に一部分として含まれています。

人生のすべてではありません。

 

そしてまた,人生の一部分としての修行は

苦しいながらも,とても楽しく充実したものです。

 

今の私にとって(カウンセラー)修行は

面白くてとてつもなく興味深くて魅力に満ちていて

たとえ誰かに辞めろと言われても

決して辞めたくないもの,です。

 

 

生きることを支えてくれるフレーズは

人それぞれ持っているものかもしれませんね。

指針を持つって,いいことだと今も思います。

 

ただ,私の「修行-道場説」は期限切れが起きました。

カウンセリングを受け始めた頃の私はまだ

この説を生きる指針として大事に大事にキープしていましたけれど

 

カウンセリングを4年半受け続けて

難治病が寛解した頃,気づいた時には

まったく意味をなさないものになっていました。

 

私自身は,この生き方の指針を手放そうとしたり

そう思わないではいられなかった背景にある

この世界に対する認知を変えようと

努力したつもりはまったくありません。

 

ただ,高橋先生に,その時話したくなったことをとつとつと喋り

時に愚痴り,時に文句を言い,時に泣き言を垂れながら

こんなことしてて,いったい何になるんだよぅ

病気はちっともよくならないじゃないか

とネガティブ気分満載で,ただ4年半通い続けただけです。

 

しかし,気がついたら

世の中に対する認知も

自分自身の生き方も

生きている自分に対する感じ方も

すべてがキレイに書き換わっていました。

 

あまりに以前と別な感じ方をするので

自分自身で驚き,あきれ果ててしまうこともある程です。

 

 

ここまで書いてきて

「修行-道場説」に代わる,今現在の私の生きる指針って

いったいなんだろう???って考えました。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

ん~,うまく言葉にならないですが

 

「今,この瞬間,感じたまま,我慢しないで

やりたいようにやる」

 

かなぁ?

なんて思います。

 

そうは言っても,やりたくないことも,やらなきゃならないときには

(いやいやだけど)やってるし

夫婦喧嘩では言いたいことの5分の1くらいは我慢してますけどね(笑)

 

 

やっぱり,なんだかんだ言って

結構長くなってしまいました(^▽^;)

 

また気が向いた時に書きます!

 

 

HP http://epiphany-mission.jp/

  silky.misughi@gmail.com

絶望や,諦めは

望ましくないことだから

絶望せずに,前向きに

諦めもせずに,粘り強く,辛抱強く生きていくことが

何より大切だと思って,長い間生きてきました。

 

しかし,今は,絶望したからこそ

諦められたからこそ

よかったのだと思うことがあります。

 

前向きで,辛抱強く生きていた頃の自分に

すごい勢いで叱られそうな,今の私です。

 

絶望し,諦めた結果として

これ以上,持ち続けながら生きていることは無理!となるまで

膨らみ切った「不安」が

心身から自然に抜けて出ていきました。

 

いくら紛らわそうとしても決して消えることはなく

払拭するために

あらゆる手段を講じてもなくなることのなかった「不安」が

ある時,自分から消えていったのです。

 

今回は,私と「不安」との,いわば戦いの記録です。

 

 

 

自分の苦しみのもとにある感情は「不安」なんだ,と気づいて以来

どうしたらこの「不安」をなくせるだろうか?という問題を解くことが

私の生きる目標になっていました。

 

よし!手放そう!と覚悟を決めたとしても

不安だと感じてしまっている気持ちは厳然とあり続ける。

手放そうと決意すればするほど

私の心は不安を放すまじ!と抵抗するのでした。

 

そんなたちの悪い

持ち続けるにはあまりにも重くて辛い「不安」の感情が

なぜ気がついたら消えていたのか?

 

それは,万策尽き果てたからだと思っています。

 

万策というくらいですから

実にたくさんの方法を試し実践し心掛けてきたのです。

私の脳みそで思いつく限りのアイデアはもちろん

本やネットからの情報収集も怠りなく

メソッドや考え方を教えてくれる人に師事し

お金も惜しみなく注ぎ込みました。

 

「不安」をなくすためには??

  • お金をたくさん稼げるようになったらいい
  • 信頼できる仲間ができたらいい
  • 人から認められるような仕事で業績をあげられたらいい
  • 自己信頼感を上げよう
  • 自己効力感も上げよう
  • 実績を作って自信を持とう
  • 外側から整えて美しくいよう
  • コーピングを学び
  • 瞑想を学び
  • 運動してセロトニンを増やし
  • 食生活に気を配り
  • 質の良い深い睡眠をとり

実にさまざまな試みと努力をしてきたものです。

考えつく限り,なりふり構わずだったかもしれません。

 

それぞれに,とてもよい効果がありました。

今でも続いていて,本当にありがたいという気持ちはあります。

 

ですが,「不安」に関しては直接的な効果はありませんでした。

 

大きなお金を稼げていても

人から認められても,褒められても,

恵まれている根拠や,幸福である理由を何千と提示されても

羨ましがられ,すごいね!と驚かれても

「不安」なものは,「不安」

 

仲間といるときは楽しいし

頑張った結果が出れば嬉しさは一時的に感じるけれど

独りに戻れば,そこに待っているのは「不安」

 

今は頑張れていて,調子がよくても

いつまたダメになってしまうかもしれない自分を

常に意識して

「不安」「不安」「不安」・・・・

 

不安なんて感じる理由がないでしょ?安心していいんだよ,と

いくら根拠を示されても

不安を感じているのは紛れもない事実

 

これは外側にある客観的な状況によって生じている不安なんかじゃないかも

と,うすうすわかり始めた頃・・・・

 

人と比較して,もし仮に自分がトップを走っていたとしても

そこで手を抜けば,奈落の底に落ちていくという恐怖は

いつでもとても身近にあって

 

今のままの自分ではいけない

こんな状態で満足していてはいけない

もっと向上心を持たなくてはいけない

これでは,いけない,いけない,いけない!

と常に自分を厳しく見張り,叱咤している自分

 

人と比較して優っている部分を見つけては

ほんのちょっとホッとしている自分

 

そんな自分がとてつもなく嫌いで

でも,その生き方を辞めようにも手放すことすらできずに

頭だけは冴えわたり

理詰めで自分を納得させようと力業を試みた頃・・・・

 

なんだか,これはとんでもなくエネルギーを使っている割に

根本の問題とは別なところで戦っている気がする

私の中にある「不安」は,むしろ力を増している気がする

 

心の奥,深いところから聞こえてくる

誰の声とも分からない囁き

「外からは変えられないよ

これは,自分の心の中で起こっていることなんだ」

 

しかしこうして挑んでいくことを辞めてしまったら

本当に自分が終わりになってしまう,という

取り返しのつかなくなる恐怖に脅かされていた頃・・・・

 

あっちに揺れ,こっちに戻り,していること自体が非常に不安定で

それこそが私の「不安」をさらに増大させていたようでした。

 

頑張り続けるんだ!と自分を励ます自分と

もういくらこんなことを繰返していても堂々巡りだ

変わるはずがないよ,と言ってくる自分とが

交互に顔を出しては苦しみました。

 

 

とても長く,苦しい戦いの日々でした。

 

 

 

結局,最後に残ったのは

もう・・・ダメだ・・・・と言い残して敗北した自分でした。

 

敗北して

絶望して

諦めた

 

諦めざるを得なかった


 

 

戦い終わって,日が暮れて・・・・

力なく腰かけている私の隣にあるのは

絶望と諦めだけだったのだと思います。

 

負けを認めてしまったダメな私には

絶望と諦めの他には何も残っていませんでした。

 

そう,何も。  「不安」さえも。

 

「不安をなくす」という戦いに敗れた私は

負けて不安から抜けたのでした。

 

何かに化かされたような

幻を相手に戦ってきたような

なんとも手応えのない結末です。

 

今から振り返ると

戦い続けてこなければ諦めることも絶望もできなかった

意地っ張りで頑なな自分であったのだな,と思います。

 

万策尽き果てるまで,よく戦いました。

 

 

 

 

 

 

HP http://epiphany-mission.jp/

  silky.misughi@gmail.com

私たちが日々感じる感情について

解釈,説明しようとする時

キーワードとなるのは

「社会的生存」ではないか

という記事を,前回書きました。

 

今回は「社会的生存」の意味を

私なりの解釈で記してみたいと思います。

 

 

すべての命あるものは,いつかは肉体的に死を迎えます。

それは生物学的な死であり,生理的な死でもあります。

 

ある人が

「死ぬことは,そんなに怖いと思わないのです。

私にとっては,毎日を生きていくことの方がよっぽど怖い」

と語ってくれたことを,よく覚えています。

 

私は,この言葉を衝撃と共に

共感と同意の気持ちを持って聴きました。

私自身の中にも,確かに生理的な死よりもはるかに怖いものが

日々の暮らしの中にあることをうっすらと意識していたからです。

 

ただ,自分自身では

「死」そのものよりも生きていくことの方が怖いんだ,と

正面切って言葉にしたことがなかったので,衝撃は大きく

それ以来,この言葉を忘れることはありません。

 

コロナ禍があって

よく見知っていた有名人の死のニュースなどに触れると

生物学的な死が,常日頃よりずっと近くにあるように感じられ

やはり,肉体的に死ぬことも確かに怖い,とは思いましたが

 

しかし,それとは別の部分で

生きていく中で感じる怖さが

厳然と自分の心の根底に流れていることに

変わりはないのでした。

 

肉体的な死は,必ずいつかはやってきます。

それは生物である私たちにとっては,避けられないことですし

いずれは受け入れるべき現実となるときが来るのです。

自然の摂理であり,道理です。

 

死を迎えるとき,傍に誰かがいて手を握ってくれていたとしても

私たちは孤独です。

独りの個として,私たちは死んでいく以外にない。

この孤独もまた,避けることのできない事実です。

 

こんな想像をしてみると,とっても悲しい気持ちになりますが

どこか気持ちは静かです。

それは,しょうがないな…

その瞬間が来たら,受け入れることしか,私たちにはできない。

 

一方,気持ちが荒れ狂う波のように逆巻き

とてもじっとしていることができない程の

恐怖の感情が湧き上がることがあります。

それが,生きていながらにして感じる

「社会的な死」なのではないか?と私は考えています。

 

どんなに孤独を愛する人でも(スナフキンでも)

人間である以上(スナフキンは人間ではありませんけれども(^▽^;)

人との関わりの中で生きるように

この社会はできています。

 

人が社会を作ったとも見えますが

社会的な生き物という私たち人間の性(さが)に沿うように

この社会は出来上がっていったのだと思います。

 

社会の中で,肉体的に生きながら「死」んでいくとは

いったい,どんな状態なのでしょうか。

 

…………………

 

自分以外の,この世界にいるすべての人から

徒党を組んで,けなされ,批判され

「ダメなヤツだ」「イヤなヤツだ」と軽蔑され

「お前のあの時のあの行為は許されないぞ」と糾弾され

見下され,見捨てられ,無視され

誰一人として,味方になってくれる人のいない状態

 

果ては,ここに自分が存在していることすら

誰からも気にされず,気づかれることさえない状態

 

助けを求めて泣き叫んでも

ちらと一瞥を投げられ面倒くさそうに嘲笑されるだけ

 

楽しそうに快さげに,仲良く喋り合ったり,笑い合ったりする

たくさんの人々がすぐそこにいるのに

自分に気づくと,眉をひそめながらニヤリと意地悪な笑みを浮かべ

そそくさと立ち去るその際に

仲間同士で目くばせしている

「うっかりイヤな場所に来ちゃったね」というように…

 

非常にショッキングですけれど

これが「社会的な死」の象徴的な一場面かと想像します。

 

 

学校での壮絶で陰湿な「いじめ」は,これに非常に近い。

未分化な子どもだからこそ,人間が何をもっとも怖れ苦しむかを

観念ではなく,感覚的によく知っているのだと思います。

非常に残酷ですね・・・・。

 

先生や,家族や,その他の誰か一人でもいいのです。

徹底的に最後まで味方になり切れる人が必要です。

 

「いじめ」問題に話が流れていってしまうと

キリがなくなってしまうので,話を戻します。

 

学校のクラスという枠を,全世界とし

クラスメイトを,自分以外のすべての人類とし

子どもが,大人になっているこの自分として

 

人が,「肉体的な死」よりもずっと恐ろしいと感じるのは

この「社会的な死」なのではないかと思います。

 

感情が,しかも激しいネガティブな感情が湧いてきて

どうしようもないという時

その背後にあるのは

この「社会的な死」への恐怖ではないかと考えています。

 

感情が生起するのは,「社会的生存」を希求するという

私たちの生物学的な特性に由来するのではないでしょうか。

 

他者といい関係で繋がっていけたら「安心」

自分の存在や行為が人の役に立って感謝されたり

行いや業績が認められて褒められたら「嬉しい」

人の温かさや優しい気持ちに触れて「安堵」する

気の合う友人とお喋りをして「うんうん,そうだね」と言い合って「楽しい」

誤解され,遠ざけられたら「悲しい」

誰からも関心が払われなければ「寂しい」

不当に見下されたように感じると「怒り」が湧き

分かり合えて当然の振舞いをしているのに通じないと「苛立ち」

あー,今日も一日頑張ってよく働いたなと感じて「快い」

 

人からどう見なされ,どう思われるか

他者とどんな関係を作りつつ暮らしているか

社会で自分がどんな役割を,どのように果たせているか

 

これらは,人間にとって非常に大きな問題なのです。

これらの要素が日々の生き心地を決定していると言っても

過言ではない程に。

 

「社会的生存」の確認によってポジティブな感情が生起し

「社会的な死」の恐怖が,ネガティブな感情に結びつく

というふうに言えるのではないかと思うのです。

 

誰に何と思われようと,自分がよいと思うことをする

それで満足だし,充分嬉しいし,私は快い

 

こんな境地も確かにあるでしょう。

しかし,こう感じている人にも

「仲間外れは悲しいし,つらい」という気持ちはあるはずです。

もし,この気持ちさえないとするならば

それは,あまり人間らしくないな,と感じられてしまいます。

 

 

 

先程書いた「社会的な死」の象徴的場面は

頭で考えれば,現実にはありそうもないことだとわかります。

誰か一人や二人は,自分に気持ちを掛け

思いやってくれる人はいそうだし

全世界が結託して,自分一人を除け者にするなんて

「トゥルーマン・ショー」じゃあるまいし。

(考えてみれば恐ろしい設定の映画…💧)

 

現実にはあり得ないので

実際,ほとんどの人々はこの恐怖に無自覚です。

でも,誰もがこの恐怖を心の奥底には持っていて

何かショッキングな出来事に直面した時に

激しい情動・感情に見舞われ

ふとこの恐怖の一角に意識が届くことがあります。

 

しかし,日常的にこの根源的な恐怖に怯えていては

生活がままなりませんね。

一挙手一投足が不自由になります。

意識から外して,「ないもの」として暮らしていくのが

方略として正しそうです。

 

一方で

この恐怖をとてもリアルに,身近に

常に感じてしまう人もいます。

そして,日常生活に支障をきたし,困っています。

 

実際には起こり得ないことに怯えて

現実生活に困窮している人のことを

普通の人の視点から解釈しようとすると

「感情・情動の暴走」と見えたり

「過剰に敏感で,心配性」と解釈されてしまいます。
(最近はHSPなどという概念も言われていて

生得的な気質だということになっているようですね。)

 

そうすると,前回の記事で書いたように

感情を司る脳の部位は「原始的な脳」だから

もう現代の環境には適さないシステムなんじゃないか

という仮説なども出現しようかというものです。

 

私は,そうではないと思う,と書きました。

「社会的な死」に激しく恐怖しながら

「社会的生存」を求めて,厳しく自分を見張りながら

過剰適応して生きている人々には

 

必ず,その恐怖を身近に感じるだけの背景があるのです。

これには,例外がないと私は思っています。

 

その背景にあるものの中で,もっとも大きな割合を占めるのが

この世で,一番信用し,頼りにしなければ生きていかれない対象に

ひとりぼっちにされた経験です。

 

気持ちをわかってもらえず,放っておかれたり

助けを求めたときに面倒臭がられたり

さしたる理由なく責められたり

何をどうやっても「お前がいけない」と怒られたり

落ち込んでいる時,さらに心の傷をえぐられたり

 

お母さんとの間で,そんな経験をして育った人にとっては

全世界が自分を忌み嫌って攻撃してくるという「フィクション」は

とてもリアリティがあります。

 

感情システムは,まったく正常に機能しています。

不必要な暴走などではないのです。

その人が「社会的生存」を脅かされた経験をもとに

この世の中を生きていこうとするなら

油断せず,周りに合わせて,自分の欲はできる限り抑え込んで

慎重に「これで本当によいか?安全か??」を繰り返し自問し

失敗を極端に避けようとしながら生活するのが

最善の防衛策なのですから。

 

過剰に敏感で,過度の緊張を抱え

恐怖と不安を基盤として,日常生活を頑張って営んでいる人の

苦しみの感情には,いかなる背景があるのか

それを正確に見立て,理解することが

臨床心理の重要な責務の一つだと思っています。

 

 

 

 

 

HP http://epiphany-mission.jp/

  silky.misughi@gmail.com

感情って,なんでしょうね?

色々な感情があります。

喜びとか,驚きとか,悲しみとか,怒りとか・・・・

他にもまだまだたくさん思い浮かびますね。

 

ざわざわ感とか,ムズムズ感とか,モヤモヤ感とか

ギュッと身の縮む思いだとか,胸が締め付けられる感じとか

「感情」のカテゴリーにうまく収まり切れないような

何とも形容しがたい思いも含めた,さまざまな感情たち

 

 

心理学領域でも感情の研究は盛んにされていて

古くは「悲しいから泣くのではない,泣くから悲しいのだ」

というフレーズで有名な,ジェームズ=ランゲ説があります。

 

これは,泣くことが先で,その結果悲しくなる,という意味に誤解されがちですが,正しくは

「ある対象を知覚して,泣いているときに感じる

身体的変化体験そのものが“悲しい”という情動なんですよ」

という意味ですね。

19世紀後半のことです。

 

その後,20世紀に入って,神経科学や生理学的な見地から

「感情を生み出す本体は脳だ」とするキャノン=バード説が唱えられました。

 

ある刺激が目から,とか,耳から入ると

大脳のある部位が,その刺激が感情を起こすべきものかどうかを素早く判断して

「これは感情的な刺激だ!」と判断されると,脳が指令を出して

身体の反応や,意識に上る感情という形になっていくんだ,という説です。

 

これらの古典的な感情研究の他にも,たくさんの説が唱えられ

  • 感情はどこで作られるんだ?
  • 感情はどのようにして発生するんだ?

という疑問に多くの学者さんたちが取り組んできたことが伺われます。

 

 

 

私たちには,幸か不幸か感情があります。

 

ポジティブな感情ならいいけれど

あまり強烈に,しかも長い時間,ネガティブな感情を体験し続けるのは

とってもつらいですものね。

 

もしかすると,感情の正体を突き止めようと研究に打ち込んだ学者さんたちも

自分の感情に手こずっていたのかもしれませんね(笑)

 

そして,未だ

「感情の正体はコレであり,このようにして感情は生まれるんだ」

という決定的な研究結果はないという現状のようです。

 

ただ,大まかに言って

「感情というのは,人間にとってどうやら有用なものであろう」

という見解が優勢で,その流れに沿って感情心理学研究は

現在も発展途上にあります。

 

どう有用なのか?というと

とても簡単に言ってしまえば

「怖い!」という感情(恐怖)がなければ,危険な環境へどんどん入ってい行ってしまうかもしれないし

「イヤだ!」という感情(嫌悪)が湧かなければ,自分にとって好ましくない場所に居続けてしまうかもしれない

人が危険を避けたり,より良く生きていく状況を選んだりする上で

感情って役に立ってますよね?ということですね。

かの進化論で有名なダーウィンも

「感情は,進化の過程において獲得された行動様式であり,文化を超えて人類共通のもの。感情とは,動物が環境に適応して生き抜いていくために発展させてきた,役に立つ反応様式のうちのひとつだ」

と論じています。

 

そこで・・・・

 

ここに一つの概念があります。

「進化的適応環境」という概念です。

提起されたのは2000年ということですから

比較的新しい概念と言えます。

 

それによれば,

脳の感情を司るとされている部位は大脳辺縁系といって

脳の中でも発生的に古い部位です。

「原始脳」などと呼ばれたりもします。

 

この辺りの脳の部位が進化発達した時代は

農耕以前だろうということです。

 

300万年から3万年前までの期間に

人類は感情を司る部分の脳を進化させた

ならば,そのシステムは

その時代に長期間続いていた生活様式や環境に適応しているはず

 

という考え方もできる訳です。

 

その頃の生活様式は

食料の調達は狩猟や採集,屍肉あさりであり

現代と比べて圧倒的に人口密度は低く

技術的には石器時代程度で

寿命も短いし,自然環境に大きな影響を受けていたはずなのですね。

 

環境において,現代とは大きなズレがある

 

とすれば

 

原始的な脳が発生させる感情システムは

古い時代に適応しているシステムであり

現代には合わない,遅れたシステムになっている部分があるのでは?

 

という問いが立ちます。

 

 

 

ん~,どうなんでしょうか??

 

すごく前置きが長くなりましたが

今日は,「感情システム時代遅れ説」についての

私の考えを書きたいと思って,久々にブログに手を着けました。

 

 

私は個人的に

「現在,人類が持つあらゆる感情・情動は

何一つ遅れたシステムになってはいない」と考えます。

 

300万年~3万年前までの生活様式は

確かに環境において現代と大きくかけ離れたものですが

 

その頃の人類も,現代に生きる私たちも

基本的に

  • 「生き残り,生き延びる」ことを最優先課題とし
  • 「社会的な動物」として生存していること

に変りはないと思うからです。

 

人が社会的であり,生き延びようとする存在である限り

すべての感情は古いシステムにはなり得ない,と思うのです。

 

確かに,現代の比較的平穏な環境下では

一般的に見て発動する頻度が減少した感情はあるかとは思いますが

それとて,非常事態に遭遇した時のために

失ってはならないものであると感じます。

 

もし,感情が現代に合わない遅れたシステムになっている部分があると仮定するなら

過剰反応が起きてしまって

必要のない時に精神的に揺さぶられて不安的になり

心を病んでしまうと想像します。

 

さて,では

現代において,過剰反応し(ているように見えて)

情動・感情が暴発することに苦しみを感じている人については

どんなふうに考えてみればいいでしょうか。

 

一つ一つをよくよく検討してみると

情動・感情には必ず起こって然るべき理由と根拠があるように

私には思われるのです。

 

感情には,必ず起こるに価する背景がある

 

過剰に反応しているように見えるけれども

実は,湧き起こってくる感情には嘘もごまかしもなく

合理的かつ論理的なんだと感じます。

ですから

不必要な時に,不適切な感情が,過剰に湧き起こることもないのではないか,と考えています。

 

それはね,立場や観点が違えば

不適切で不合理で

周囲にとっても本人にとっても不都合極まりない感情の暴発だと見えることも多々あります。

 

でも,感情は思考よりずっと正直で,ありのままで

間違いを犯すことがありませんし

(思考は騙されたり,見落としたり,間違うことがとっても多いですが)

何より,その人本体の「社会的生存」のために

心が発動しているものです。

 

その感情に翻弄されてしまう本人の意識が

「こんな感情,もう嫌だ,耐えられない!」と感じ

非常に苦しんでいるとしても

やはり,感情は人の存在にとって有用なものであることは間違いないと言いたく思います。

 

本人にとって,苦しくて辛い,不都合な感情が

どうして有用なのか?

 

この問いについて考えるとき

上記の「社会的生存」という言葉が

重要なキーワードになると考えます。

 

 

長くなりましたので,「社会的生存」っていったいどういうこと?

というトピックについては,次回の更新に回したいと思います。

 

引っぱってすみません<(_ _)>