友人とおしゃべりをしていて

バタフライ エフェクトという言葉がふと浮かびました。

 

「この世に偶然はないと聞くけれど

例えば以前の知り合いとばったり行き交ったとしても

“ああ、久し振り”と言葉を交わし別れた後

何も変わらず、何も起こらなかったら

やっぱりそれはただの偶然ということではないか?」

というような話になった時のことです。

 

ふぅむ、そうかも・・・・と思いながら、「バタフライ エフェクト」という

映画にもなった現象のことを思ったのです。

 

バタフライ効果というのは、気象学者の

「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」という講演タイトルに由来するもので

 

蝶の羽ばたき程度のわずかな変化の在る無しで

その後の状態が大きく異なってしまうという現象を指す

カオス理論の一表現です。

 

一見、何の因果関係もなさそうな出来事や経験が

人の未来を大きく変えていく場合は確かにあります。

 

例えば、偉人の伝記を読んだりドキュメンタリーを見たりすると

よくあるエピソードとして

あの時、○○に乗り遅れて・・・・

あの時、そこであの事故に巻き込まれ・・・・

やろうとしていたことを諦めざるを得ない事情になり・・・・

たままた席が隣り合わせた人と知り合いになって・・・・

のちのち思っても見なかった展開になった

といった運命の分岐点となる出来事があります。

 

こういった現象は、しかし、あとになって認識ができるものですが

実は、私たちの日常は、本人も周囲も氣づかないほどの微小な変化によって

その後の成り行きが大きく変わってしまう可能性に満ちているのでは?と私には思えるのです。

 

しかも、その微小な変化は

絶えず、刻々と、随所で、起こり続けているので

多くの要素が無限に近く絡み合っていて

とても人間業では予測できないのではないか、とも思います。

 

誰にも解らないことで予測不能だとすれば、証明もできませんが

とにかく、そういうことでこの世は動いているように感じられてならないのです。

 

因果関係と言えば

いい行いを重ねていれば恵まれる、とか

悪いことをするとその報いが返ってくる、とか

そんなふうに私たちは漠然と思い込んでいるところがありますが

 

善行の人が不運、不幸に見舞われることはなくはないし

悪が栄えることも多々あるのがこの世界です。

 

そういう目に自分が遇ったり、間近で見たりすると

非常に理不尽な氣持ちになります。

けれど、やはりこの世界で起こっている現実は

私たちの理解と予測を大きく超えたところで動いているようです。

 

私たちが日ごろ経験する理不尽さへの憤りや

不運、不測の出来事に遭遇して受けるショックは

一つには、私たち人間の「意識」が

非常に狭い範囲でしかものを捉えられないことを

通常、私たち自身が忘れている、或いは知らないままでいるから

と言えるように思います。

 

「こうすればこうなる、そこに疑いはない」

と言い切れる明確な因果関係は

ニュートン力学の矛盾を量子力学が明らかにした時点で

消失してしまったのではないか、と考えたりしています。

 

けれど、私たちは目論見通りに事が運ばない時

自分の打ち込んだ情熱や払った努力が報われない時

「なぜだ!?」という絶望的な氣持ちになります。

もちろん、私自身も日常的に・・・・(^-^;

 

しかし、そこにあるのは

志したけれど、その通りにはならなかった、という現実です。

精一杯やったのに、なぜなのか?は

少なくともその時点ではわからない。

 

そして、その現実が自分にやってきた意味も不明のままです。

つらく悲しく苦しいことですが、わからないものは

いくら考えてもわからない。

 

私の思考は、過去の経験と記憶のデータを材料にしてしか

まとまっていかないからです。

 

 

 

最初の友人の問い掛けに戻ります。

街で思っても見ない人と出会ったことは、偶然と呼んでもいいと私も思います。

しかし、その偶然によって、出会う前のあなたと

出会って声を交わし合った後のあなたでは

別な人になっている、と言えると私は思うのです。

 

それがいいことか、悪いことか

その後、それが何にどういう変化をもたらすのか

それはわかりません。

 

だから「偶然、会った」とそれだけのことで忘れてしまっても

何の差支えもないと思います。

 

何も起こらなかった、何も変わらなかった、と結論付けるのは

私たちの意識と思考です。

見えない所で、とんでもない変化が起こっていて

まったく関係ないと思われる時に、まったく別の場所で

以前起こったけど覚えてもいない偶然の「羽ばたき」が

人生を揺るがすほどの「竜巻」となって押し寄せることも

なくはない。

それが誰にも紐解けないものであったとしても。

 

私たちの「意識」が捉えられる範囲って

本当に本当に限られているんだろうな

私たちに見えない、わからない範囲の方が

ずっと広大で、果てしがないというのに

それを「すべてを認知しているはずだ」

「追求すればわからないものはない」と

ふと思ってしまう、そういうとこ私にも多々あるな・・・・

 

つらつらと、そんなふうに想いを巡らせていたら

ふと思い出した高橋先生の言葉がありました。

 

セッション内で、クライエントが語った言葉を

クライエント自身が忘れてしまっても、いい。

無意識にクライエントの口からこぼれる言葉も、ある。

だが、それらを口にする前と、口にした後のクライエントは

別の人になっている。

カウンセラーは、その言葉を聴き逃してはならないし

その言葉の持つ意味をしっかりと理解していなければならない。

そうすれば、クライアントの心は自然と回復する。

 

正確な言い回しは忘れてしまったのですが

意味は確かにこういったことだったと覚えています。

 

心理療法としての「ほんものの」カウンセリングは

クライエントの意識や、認知や

ましてや思考を扱うものではないのだなーと

深く心に刻み込まれました。

 

思考、意識、記憶、認知、感情さえも超えたところにあるもの

それが私たちが皆持っている「心」です。

 

私たちが「これが自分だ」と思っているのは

大部分が「意識」です。

しかし実際は、「意識」は真実の私たち自身のほんのわずかな一部分でしかない。

「心」の中のことは「意識」を遥かに超えたものだ、ということです。

 

「意識」の上で考えたり、思ったり、感じたりもし

そこで迷ったり、悩んだり、疑問を持ったり、疑ったり

自分で自分がわからなくなったり、混乱したり

私も含め、人間ってそうやって右往左往して生きています。

 

でも「意識」では到底太刀打ちのできない「心」こそが

今、ここに在る自分自身です。

 

理由もなく憂鬱だったり

思い当たることがないのにモヤモヤしたり

なぜかわからないけど悲しいとか、イライラするとか

昨日と今日ではさしたる変化もないと思うのに晴れやかだったり

そういうことが実際に起こります。

 

その理由や根拠が何であるのか

自分の「意識」の中をどれだけ探してみても

見えてこない。

 

これじゃないか?○○だからかもしれないと推測して

「意識」の中から引っ張り出してきた根拠には

そうに違いない!と「意識」が納得したとしても

どこかしっくりこない何かがあることを

私たち自身が感じてしまいます。

 

 

自覚的には「意識」の中でしか生きられない私たちです。

だからこそ

心に在る自分にとって重要なことが見えなくなったりして

苦しみます。

 

「意識」が絶対的なものでない、と知っているだけでも

ほんのちょっと力が抜けるのではないでしょうか。

【声からアプローチする♡

心と身体を解放するヴォイス・レッスン】

 

「声」は誰もが日常的に使っているものであるにも関わらず

無頓着、無意識に出していることがほとんどです。

 

「声」はその人の本質を顕します。

 

なぜなら「声」は、存在表明にほかならないから。

 

そこに存在し、息をし、意思と感情と欲求を持ち

生きていることの自己表明なのです。

 

その「声」と向き合うことは

自分の心と、身体と、向き合い、知ろうとする試みです。

 

自分らしさを存分に表出して

毎日を生き生きと生きることを阻む

障壁となっているものが何なのか?を

 

生きている上で感じている

「窮屈さ」「不自由さ」の元になっている

心の奥に潜むものが何なのか?を

 

様々な手法を用いて体感する

 

ワークショップスタイル・小人数制のヴォイス・レッスンです。


 

◇11月のスケジュール◇

 

* 11月12日(月)    14:30~16:30

  

* 11月24日(土)   14:30~16:30

 

 

◇12月のスケジュール◇

 

* 12月9日(日)     14:30~16:30

   

* 12月25日(火)   14:30~16:30

      


         
※ 発声障害をお持ちの方の参加もどうぞご相談ください。

 

発声障害は、身体的病理の病巣・形跡が見当たらないのですが、 「病気」だとされています。

ところが、時によって難なく普通に声が出る場合もあります。

本当に脳機能的・神経系統の「病気」であるなら、正常に戻ったり、また症状がひどく出たり、という「ムラ」が生じるのはなぜなのか、論理的説明が難しい。

 

このレッスンでは、「症状がひどく出てしまう状態」と「なぜかふと普通に声が出る時の状態」を、少しずつ自分で「選べる」感覚を掴んでいこう、という内容を含んでいます。

 

私自身は、発声障害の症状を「出ない状態」に、常に「自分で」「選択できている」状態にあるだけであって、この「病気が治った」のだという感じはしていないです。

 

けれど、もう「声」のことで、悩むことはすっかりなくなりました。

お申込みはメールにて!
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  最適のヴォイス・レッスンです★

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受講者様の声

【声からアプローチする心と身体を開放するヴォイス・レッスン】のレビュー

【声からアプローチする♡心と身体を開放するヴォイス・レッスン】感想を戴きました

個人レッスンを初めて受けた方の感想が来ました  

出してみるまで気づかない  

ヴォイス・レッスンを受けてくださった方の感想

ヴォイス・レッスン体験版のご感想  


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自分の中に潜み、無意識に抑え込んだり
出てくることを拒んでいる感情を

声を出すことによって、表出することが
できるようになります。

自分の抱え持っていた感情に
気付くことができます。

まずは、気づき、味わってみること♡

悲しみであろうと
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そうすることで初めて
心身の解放が起こります。

それも、自動的に
自然に
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愉しんで
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感情を受け容れ、味わうことで
人は初めてその奥にある「主観性」へ
至ることができます。

「主観性」から得られるものは
数知れません。

詳しくは当ブログの記事を
ご参照ください。

   ↓↓

主観性からの贈り物 』

続・主観性からの贈り物 』

なぜ主観性を見失うのか  』

主観性への怖れ  』

主観性への旅、最後の壁 』

主観性と客観性 』

★このレッスンを受けて得られること★

☆ 心と身体から、無駄に込めていた
  力が、ふっと抜けていきます

☆ 気持ちよく、安心して
  自分の存在をありのままに受け容れる
  ことができるようになります

☆ 精神の高揚を感じることができます

☆ 日ごろ感じている、そこはかとない
  不安や不自由さの正体が見えてきます

☆ 自己肯定感を得ることができます

 

☆ 瞑想法の基礎を体感できます

☆ レッスン後、日常に戻っていったとき
  暮らしやすさ、心地よさを維持できます

☆ 声に対するコンプレックスを
  克服することができます

☆ 発声法の基本が身につきます


なにごとも、体験してみないことには
効果も、実感も、価値も、知ることができません。

 

 

 

◇11月のスケジュール◇

 

* 11月12日(月)    14:30~16:30

  

* 11月24日(土)   14:30~16:30

 

 

◇12月のスケジュール◇

 

* 12月9日(日)     14:30~16:30

   

* 12月25日(火)   14:30~16:30

    

定員:3名

場所:東京都JR高円寺駅徒歩10分ほどのサロンにて

受講料:5,000円/2時間

 

 

 

※ 単発のご受講が可能です。

自分を確実にラクに変えていく
ヴォイス・レッスンです。

是非一度、効果を確かめに
いらしてくださいませ。

一歩の行動が、あなたの
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お問合せ・お申込みは
メールにて承ります。
    ↓ ↓
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ご参加、お待ちしております(*^-^*)

集客のため??

テーマ:

しばらくこのブログを放置状態でいました。

実は書きたいことはまだまだ山のようにあるのだけれど

なんだかなー・・・・

発信することに意欲が薄らいだ感じがしました。

 

同時にFacebookやTwitterへの投稿も

なんとなく、今はいいかーという感じでした。

 

そう「感じ」ばっかりですね(^-^;

 

もう自分の感じを、思考で矯正することをしなくなったんだなぁと

「感じ」ています(笑)

 

いつごろからか、集客のためにSNSへ投稿することをしなくなり

猫や夕食の投稿ばっかりになって(たまに夫ネタ登場)

たまに他人事のように自分の投稿を読み直してみると

我ながらふざけた毎日を送っているなぁと思ったりします。

 

 

 

 

 

 

でも、実際の生活はちっともふざけてなんかなくて

どちらかと言うと真面目に真剣に、そして楽しく生きています。

辛いことも苦しいこともシンドイことも「なぜっ!?」という事象も

体験はしますけれど、おしなべて幸福です。

 

 

私がこのブログを始めた頃

誰かが自分の記事を読みに来てくれるなどとは

まったく想定していなくて

自分の闘病記録として、自分自身の為に記していました。

 

アメブロが集客に向いたツールだということもまったく知らず

よく読んでいた「猫ブログ」がアメブロを使っていたので

何となく選びました。

 

そのうちに発声障害が寛解して

あれよあれよという間に自身が心理カウンセラーになり

クライエントさんをとるようになりました。

 

開業してから、ビジネスの勉強をし始めて

ブログやFacebookなどを集客ツールとして使うのだ、と知りました。

 

当時は教わった通りを忠実に実践していました。

倦まず弛まず怠らず、コツコツと記事を書いては

ブログを更新し、Facebookに上げていました。

 

それは、私の書きたいこと、発信したいことと

何ら相反していなかったので

困難も面倒も感じず、むしろとても楽しく面白い行為でした。

 

でも、ここに来て、何となくですが

集客のためにこのブログを書くのは違うなぁと思うようになりました。

氣づけば、既に1年ほど前から

集客目的で文章を書いてはいなかったのです。

 

一日何人の方がアクセスしてくれてるのだろう?とか

どの記事がよく読まれているんだろう?とか

氣にした時期も確かにありましたが

今現在は、好きな時に書いて更新して

気が向かなければ放置状態になっています。

 

もしかしたら、更新を待っていてくださる方がいらっしゃるのかもしれません。

そう考えると申し訳ない気もするのですが

もう「ごめんなさい!」という他はないです<(_ _)>あせる

 

それより、今ここの私自身の生活と

通ってきてくださるクライエントさんたちのことに集中したい。

 

もし、読者の中に心理療法を必要としている方があるならば

今まで書いてきた記事だけで十分なのではないだろうか?とも

思っています。

 

日々、目の前のクライエントさんから新たなエピソードを聴き

その心を感じ、真の意味を考え、治療技法に照らし

確実に起こるであろう回復の道程を見守る。

高橋先生の指導の下、勉強する。

指摘されて実力不足に落をち込むことも多々ありますが

師匠や心理業の仲間たちに励まされ、力づけられることも多いです。

 

声楽家としてもお陰様でお仕事をコンスタントに戴き

また自分からも様々なチャレンジをして

時に敗れたり、時に獲得したり

その度に色んな感情を味わってはかみしめています。


そんな生活が充実していて

手を広げる余裕と意欲が追いつかない、と言ったらいいのか

精一杯、今の自分ができる、かつ、したいと欲することに集中し

充分充実して幸せ、という現在なのだと思います。

 

 

実に実に不思議なことに

集客目的でブログもFacebookも投稿しなくなった頃から

新規のクライエントさんから申込みは絶えないのです。

 

それは爆発的な繁盛とは申せませんが(笑)

地道に確実に毎月の予約は埋まっていきます。

 

記事をひとつupして

投稿で受講者を募って

成果発表のブログを更新して

その都度、レスポンスに一喜一憂していた頃の自分が

まるで他人のように遠く感じます。

 

ライフワークとしてずっと月2回ずつ継続して行なっている

【声からアプローチする♡心と身体を解放するヴォイス・レッスン】も

相変わらず盛況で

2回設定から3回、時には4回と増設する月もあります。

 

変化しているのは

このレッスンに申し込んで下さる受講生さんの傾向です。

楽しく声を出してみたい、気持ちよく発散したい、発声法を知ってみたい・・・・

確かにそんなお気持ちは以前から変わらず

皆さん共通してお持ちのようです。

 

けれど、以前と比べてずっと「声・心・身体」というものの関係を

真剣に、時には深刻な問題として感じられて

受講に至っている方が増えている。

 

そうなると、レッスン後に『受講生様からの感想』だの

こんな「レッスンでした!」というような報告記事だの

公表するような類のものではなくなってきたのです。

 

2時間のレッスンでは、指導する側にとっても、受講される側も

その時間その空間でしか体験できない特別なものになります。

それはかなりクローズドな内容になってきますので

決して公表されるべきものではないと感じるようになりました。

 

以前は集客メソッドに則って

レッスン後の報告記事を書いていましたが

今は到底、そんな氣持ちになりません。

 

これはカウンセリングにおいても全く同じことですし

声楽レッスンもまた、ある意味でクローズドなのです。

そこでは、クライエントさんと治療者、生徒さんと指導者

その両者間でのみ共有され、外に出ないことが前提の

親密なやり取りが交わされます。

 

大袈裟に聞こえるかもしれませんが

まさに「生命、人生に関わる交流」です。

そんなものをおいそれと不特定多数の目に晒してはならない。

 

それと並行して、私の心情に訪れた変化もあります。

サロンの有様、自分自身の服装や装飾、そういったものを

なるべく「地味に」目に立たないように、関心が向かないものにと

自然と心掛けるようになりました。

 

以前は、初めてサロンを訪れた人がまず第一声

「わー、素敵なお部屋ですね」と言ってくださるような部屋にしたい

そう思っていました。

 

私自身は高橋先生の治療後

おしゃれすることが楽しいと感じるようになったので

開業した当初はカウンセリング・セッション時にも

メ一杯おしゃれしていました(笑)

 

今はと言うと、私が何を着ていたか?とか

何を身につけていたか?など

なるべく印象にも記憶にも残らないよう

意識にさえ上らない服装でいたい、と思うようになりました。

ネイルなども(爪が脆いので塗っていますが)塗っていることがわからないヌード色しかしません。

 

部屋もおいそれと改造はできない(主に経済的な汗)事情ですが

本当は必要なもの以外は存在しない

すべての装飾を排したサロンでありたいと思います。

 

場についても、人についても

  • 汚れていて気になる
  • 素敵で印象に残る

どちらも、セッション・レッスンにおいては失敗だと感じます。

 

そんなふうなことをスーパービジョンで高橋先生に言いましたら

「あなた、わかってきたじゃない」(笑)と仰ってくださいました。

 

クライエントに憧れを抱かせたら、カウンセラーとしては失敗です。

「素敵だなぁ」「あんななりたいなぁ」「すごいなぁ」

高橋先生に言わせると、こういったクライエントのカウンセラーに対する「転移」の感情は

セッションの邪魔にこそなりはすれ、治療の役には立たないのです。

 

個人的に好きで憧れている人に

自分のカッコの悪いと感じていること

こんなこと言ったら軽蔑されるんじゃないか?

嫌われるんじゃないか?と思うようなことを

語ることはできません。

 

ましてや、誰にもバレてはならない

墓場まで持って行く、と決心した秘密なら尚更です。

 

しかし、その本心の部分を吐露し告白してこそ

そして、そうならないではいられなかった背景と理由と意味を

カウンセラーがクライエント以上に深く理解し、受容してこそ

治療は確実に進んでいきます。

 

その実、「だけど僕は本に偉そうなこと書いてるからね

勝手に転移は起こっちゃうんだけどね」と高橋先生も仰っていましたが・・・・(笑)

 

そういった意味で、今、私の目前にあるクライエントさんのことが

大事に、大切になればなるほど

「被虐者の私は、声を失う程に苦しんだけど

これこれしかじかの紆余曲折を経て

今は、ほらね、こんなに自由でラクに幸せになったのよ」という記事を

書くことに躊躇いを感じるようになりました。

 

とは言っても、こうして書いている訳ですけれども( ̄▽ ̄;)

矛盾している、と思いながら

強い葛藤を感じながら、こうして書いています。

 

それは

被虐者が回復した一つの実例として

治らないと言われている発声障害者が治癒したという実例として

こんなモデルケースがあるんだよ、ということを知って

私の知らないどこかで誰かの心に希望が芽生え

治療が奏功していく人が増えるなら嬉しいと

そう思うからなのです。

 

ただし、そういう方は、私のクライエントさんにはならない(笑)

ならない方がいいんですよ、と言いたい自分がいる。

 

今や、このブログを書くことは、集客の反対の効果ですね(笑)

 

【声からアプローチする♡心と身体を解放するヴォイス・レッスン】の開催日程は

今まで通りHPと同時に、このブログにも告知いたします(*^^*)

この情報を必要としている方へ届けるために。

 

書きたくなって、時にはばばーっと更新し

また書く気が湧かずに放置し

そうやってこれからも私とこのブログの付き合いは

ぼちぼちと続いていくのかな、と

そんなふうに「感じ」ているこの頃です。

 

 

あら?私、今、怒ってた?

テーマ:

前回の記事のおしまいに

私が割合“正しく怒る”ことができたときのことを書きます

と予告してから

一月近くも経ってしまいましたあせる

 

その間に、今年の2月に続いて生涯二度目の声楽コンクールを受けて

今度は前回より一歩前進(*^-^*)3位に入賞したりして

伴奏を弾いてくれた新道美緒さんと♪

 

その後、バタバタバタバタ・・・・としておりまして

という言い訳をしたところで

本題に入ります。

 

私が、どうやら今さっき、自分は怒っていたらしいと氣づいたのは

今年2月の引っ越し騒動の最中でした。

 

こんな書き方になるのは

怒ることに自覚的じゃなかったからです。

怒りはあるけど、出そうか出すまいか?と考えたのでもなく

怒ってはいけない、取り乱してはいけない、と自制しつつ

暴発してしまったのとも違い

 

自然に、すんなりと、何にも考えずに怒っちゃったんですね。

 

相手は、エアコンの業者さんでした。

 

急遽決まった引っ越しは2月

1月中に引っ越し先である実家の片付けと

故障しているところの修理・修繕にてんてこ舞いでした。

 

数か所設置してある古ーいエアコンのうち1台が

明らかに故障しているか、間もなく故障するであろう異音を発していたので

まずそのメーカーの修理部に現調に来てもらったのです。

 

調査に来てくれた修理部の方は大変にいい方で

ちゃんと作動しているその他のエアコンも見てくれて

その場でできるメンテナンスは手間を惜しまず

無料でしてくれました。

 

ただ、肝心のエアコンからの異音は経年劣化によるもので

修理はできなくはないが、大変手間も料金もかかる

それであと何年持つかを考えると

修理ではなく、ここだけ新品と交換設置した方がいいと

意見をくれました。

 

20年以上経っているエアコンですから

私も納得して

「では一応、修理をする場合の見積もりと

新品を設置する場合の見積もり、両方出して

送って戴けますか?」とお願いしました。

 

「修理の見積もりはすぐ出ます。

帰って私が作って、三日後には届くようにします。

新品を設置する場合は、実は別会社になるんです。

でも同系列会社ですから、今日現調させて戴きましたので

報告書を送って、見積もりをこちらに送るように伝えます。

そちら方の見積もりは1週間ほどかかるかもしれません」

 

ということでした。

 

その通り、修理の見積もりはすぐに届きました。

夫とも相談の上、またいつお釈迦になってしまうかわからないものを修理するより

思い切って買い替えてしまった方がいいだろうということになり

新品設置の見積もりが届くのを待っていました。

 

ところが

待てど暮らせど見積もりは届きませんでした。

 

実家の片付け、その他の修理は着々と進んで

そろそろ住んでいたマンションの方の整理・荷造りの方に

かからなければ、となって

痺れを切らした私はその業者さんにこちらから電話をしました。

 

現調に来てくれた修理部からの報告と

見積もり作成の依頼はちゃんと行っていることがわかりました。

電話に出た男性は、「担当者は○○という者ですので

1時間後に電話をかけさせます」と言いました。

 

そして、その担当者という人から電話がかかってきたとき・・・・

私は怒ったのです(笑)

 

まず最初に、自分で電話をかけてきたのに

「どういったご用件でしょうか?」的な感じだったのです。

おいおい、担当者なんでしょ?と思いながらも

律儀にこれまでの経緯を説明をしました。

 

すると、なんと!

「では現調に伺いますので、来週以降のご都合のよい日時を教えてください」と!!

 

現調は済んでいるんです。

再び現調しなくて済むように報告が引き継がれていますよね?

見積もりはもうとっくに届いていなければならないはずです。

こちらは引っ越しの日が決まっていますから

逆算して無理のない時期に修理・見積もり・設置の手配を始めました。

見積もりが届かなければ検討することができない。

来週はもう引き払うマンションの方で荷造りにかからないとならないので

引っ越し先に出向いていられない。

そうならないように早めに手配をかけたんです。

設置が遅れれば、2月の一番寒い時期に

主人の寝室の暖房がないまま引っ越すことになってしまいます。

もう二日だけ待ちましょう。そちらで何とかしてください。

それがこちらができる最大の譲歩ですよ。

 

と・・・・かなりの剣幕だったかもしれません( ̄▽ ̄;)

 

相手は、これまた驚いたことに

優に1分くらい、電話口で“黙って”いました。

┐(´д`)┌ヤレヤレ

 

そののち

「・・・・では、見積もりが作成でき次第お送りします」とだけ言って

電話は切れました。

 

ご送付先のご住所を・・・・なんて言ったら

チコちゃんみたいに真っ赤になって

「ボーっと生きてんじゃねーよ!!むかっ」と

怒鳴っていたかもしれませんが

 

 

さすがにそれは訊かれませんでした(笑)

 

きっかり二日後に見積もりは届き(やればできるじゃねーか!)

検討の結果、結局その会社には

新しいエアコンの設置は依頼しなかったんですけれどもね(笑)

 

 

私が電話口で怒っていたとき

それほど早口ではなかったものの言葉は淀みなく出てきました。

 

声も上ずるでもなく

詰まるでも、震えるでもなく

ごく普通に出ていました。

 

そして、電話を持つ手も少しも震えておらず

片手は食材の整理をしながら

口だけ流ちょうに動かしていました。

 

「ったく、もう!むかっ」とスマホを切って独り言ちて

初めて自分が怒ったことに氣づきました。

 

それは、数年前に高校の職員室で

ある先生がやはり電話口で業者に怒っていたのを

憧憬の面持ちで眺めていた私自身であるとは

到底思えない出来事でした。

⇒『正しく怒れますか?

 

自分がたった今、電話を片手にキッチンの整理をしながら

業者に向かって放ったエネルギーは

怒り以外の何物でもない

それは、高橋先生おっしゃったところの

「正しく怒る」という行為に近かったのではないだろうか?

 

怒ったように見えていた過去の私は

実は正しく怒ってはいなかった。

取り乱し、防衛本能から相手を攻撃していただけなんだ、と

改めて思いました。

 

それは、私自身が苦しくツラい想いをする

怒りの暴発であったなぁ、と

 

正しく怒ることができるようになった今

電話を切ってからも変わらぬペースでキッチンをパタパタと走り

何の後悔も自責も感じていない自分を認めて

そんなふうに回想したのでした。

 

 

実は、怒ることに限らず

以前は到底できない!!と感じていたことを

今の私は平気で、しかも半ば無意識でやっちゃってたりします。

 

到底できない、どうしたらあんなふうにできるんだろう?と

他人の行為を羨望と驚異の眼差しで見ていた頃の私は

 

それを「習得する」には、どうすればいいのだろう?と

無意識に考えていたようです。

 

自分にはできない

だが、それをできる人もいる

ならば、それは稽古や勉強や練習や訓練や

そういう努力によって習得するものなんだろう、と

信じ込んでいたんですね。

 

ところが、実のところ

到底できなかったことを普通ーにするようになった今までに

なにか努力したかな?と自問すると

何ひとつ頑張った記憶はないのです。

 

それは、自然に起こったのです。

だから、習得するものではないようです。

 

無意識に自然にやっちゃって

その後で「あれ?私、前、これって絶対できなかったよな」と思う。

そんなことばかりです。

 

発声障害で、到底、普通に声が出せない、と感じていた頃

やはり、技術の習得で声を取り戻そうとしていました。

けれどその方法では声は戻って来ませんでした。

 

自然と、ある日気がついたら

そう言えば声のことを考えていないな

声に不自由していないな、と思ったのです。

 

心が変わると、感じ方が変わる

感じ方が変わると、想いが変わる

想いが変わると、行動・言動が変わる

そうすると、ごく当然のごとく

人生そのものの色合いがかなりはっきりと変わります。

 

私の心が変わったのは

高橋先生の治療を受けたからですが

その治療そのものは決して安楽なものではなかったと

今振り返って思います。

 

治療中、苦しみましたし

治療を始める前よりずっと悩みましたし

症状も一時、更に悪化したことさえありました。

時間もかかり、もう一生回復は無理なんじゃないか?と疑った時期もありました。

 

けれど、ひとたび変容した心は

ラクさを獲得し、また同じ苦しみには戻りません。

広がった心が、再び縮んでしまうことはないのです。

 

今、治療を受けていて苦しみの只中にある方へ

或いは、心理療法としてのカウンセリングを受けようとしている方へ

何らかの指標になれば、と思い

こんなお話をしてみました。

 

 

 

正しく怒れますか?

テーマ:

ある方とお話していて

タイトルのような質問を受けました。

 

「みすぎさんは、怒れますか?」

 

すぐに意味が分かりました。

怒るべき時に、ちゃんと、しっかりと、正しく

怒ることができますか?という意味だと。

 

あー、怒れなかったんですよ、長年。

なぜか怒れなくて、怒るべきところだよな、とわかっていても

怒りはちゃんとお腹の中にあるんだけれども

潜ってしまっていて、怒れませんでしたね。

表に出すことができませんでした。

 

そんなお話をしているうちに

記憶の中から次々といろんなエピソードが引きずられて出てきました。

 

高橋先生の治療を受けていた頃、おそらく今から6-7年前でしょうか?

カウンセリングを受けはじめてからもう2年位経っていた頃だったと思います。

 

セッションの中で高橋先生に次のような出来事を

お話したことがありました。

 

「今日、勤めている高校の授業を終えて職員室に戻ってきたら

ある先生が電話口で、かなり激しく相手に怒っていました。

内容は、2年生の担任であるその先生が、修学旅行に関する

何かの業者さんを相手に(旅行代理店?)

依頼したはずの内容と違う旅程が組まれていたとか

時間的に無理な列車が手配されていたとか

詳しくはわかりませんが、ともかくとても怒っていたんです。

私は記入すべき書類があったのですが、完全に手が止まってしまい

その電話に全神経が行ってしまいました。

怒っていらっしゃった先生は

私とも普段から比較的仲の良い女性の先生で

趣味で楽器を演奏なさるので

たまに音楽室を使わせてください、と仰っていらっしゃるのです。

普段はごく普通の温厚な先生です。

その先生が激しく怒っている。

声を震わせるでもなく、身体がわなわなしているでもなく

興奮し過ぎて赤くなるでもなく、冷静過ぎでも嫌味でもなく

“それっておかしいですよね!ちゃんと私、伝えましたよね?”と

割合理路整然と先生という立場で自己主張していらして

私は、なんだか不思議な氣持ちになりました。

すごく羨ましいような、すごい、ちゃんと怒ってる!と驚嘆するような

尊敬したくなるような、変な気持ちになったんです。

電話が終わるまで手を止めて

ぼーっと怒っている先生の声を聴いていました。」

 

高橋先生は

「なるほどね、その先生、正しく怒っていたんだね」と。

 

「はぁ~、正しく怒る、か・・・・

なるほど!そうです、正しく怒っていたんです。

私は、正しく怒ったことがない。

その先生のようには到底できません。

正しく怒ることができないです・・・・」

 

そんなセッションがあったことを思い出しました。

 

確かに、傍から見れば

「みすぎが怒っている」と見えた言動を取っていたことも

あったかもしれません。

 

でも、私の中では、それは怒っているというより

取り乱していたんですね。

 

相手からあらぬ疑いを掛けられ

理不尽な文句を叩き付けられたときなど

もうどうしてよいかわからず

反応的に相手に噛みつくような言動になってしまっていました。

 

それは

【窮鼠猫を噛む】という表現がぴったりくるような反応でした。

 

追い詰められて、もう逃げられない、と覚ったとき

反射的に出てしまった反応です。

 

そんなことのあった後は、心臓はバクバクしますし

身体はわなわなと震えますし

声ももちろん上ずったり、詰まったり、震えたりしました。

イヤな汗をかいて、胃がせり上がるような氣分の悪さがあり

家に帰り着くと、激しい疲労感から

着替えることも顔を洗うこともできずに倒れ込んでいました。

 

そして、じわじわと自責感が湧いてきました。

「どうして私はあんなに興奮して感情的な言葉を相手にぶつけてしまったんだろう?」

「普通に話せば誤解は解けたかもしれないのに」

「それにしてもこんなに疲れてしまうなんて、まるで自分に対して暴力をふるった後のようだ」

 

自分のとった訳のわからない言動に、うろたえ、激しく後悔し

落ち込んでいました。

 

 

そうかと思うと

相手の理不尽な要求や言いがかりに対して

(そういう厭な目にあうことが過去にはしばしばありました)

怒っていいはずなのに、ヘラヘラと作り笑いを浮かべて

従ってしまうことも多くありました。

 

「私はまったくこんなことを望んでいないのに

むしろこんなことは絶対嫌なのに

なぜいい顔をしてへいこらと言いなりになってしまうんだろう?」

 

「傷ついているのに、どうして全然平気~みたいな顔をして

友達のふりを続けてしまうんだろう?」

 

不思議でなりませんでしたが

そんなことがあった後も、私の行動は修正されるどころか

加速していきました。

むしろ、無理難題を押し付けてきたり、高圧的だったり

理不尽なことを言う人に

自分から近づいて行ってしまう傾向さえありました。

 

 

 

また別の話ですが

夫と結婚して一緒に住み始めて間もなくのことです。

外出先から、在宅している夫に電話で

なにか頼みごとをしたのです。

明日の早朝出掛けるので、可燃ごみをまとめておいてくれない?とかなんとか・・・・。

 

そうしましたら夫が

「イヤだ」と即答しました。
(疲れて面倒臭かったのだと思います)

 

私は心底びっくり仰天してしまい、怒ることも困ることも

文句を言うことも忘れて、しばしその「イヤだ」という夫の言葉を

味わっていました。

 

氣づけば、私自身、大人になってから

「イヤだ」という言葉を発したことが

ただの一度もなかったのでした。

 

聞きなれない言葉が耳に飛び込んできて

フリーズしてしまいました。

 

そして、なんだかフフフ・・・・と笑いがこみ上げました。

「そうか、イヤなときは、イヤだ、って言っていいんだ」と

力が抜けました。

その時から、少なくとも夫に対しては

私もNOが言えるようになりました。

 

それまで、頼みごとをされたら

それが自分にとって到底不可能なことでも

どうやったらNOと言わずに要求に応えられるか?しか

選択肢を持っていなかったのでした。

 

 

その時

「大人が“イヤだ”っていう言葉を躊躇いなく発したのを

初めて聞いたわよ、びっくりよ」と夫に言ったのですが

それは私の大きな思い違いでした。

 

私の母は「イヤ」「イヤぁ~」「イヤだー!」と頻繁に言う人でした。

私が子どもの頃から、大人になってからも

母から「イヤだ」という言葉を聞かない日はなかったと言っても過言ではありません。

(今でも施設に訪ねて行くと、私の滞在時間40分位の間に優に10回は下らない頻度で言っています(笑))

 

正確にはその時、夫に

「“正常な”大人が“イヤだ”という言葉を躊躇いなく発するのを

初めて聞いた」と言うべきだったのでしょう。

 

この出来事は、母が境界知能であることを知る遥か以前のことですが

私の中では既に、母は“ごく普通の大人”とは見なせないという認識がはっきりと存在していたのでしょう。

もちろん、自覚的ではありませんでしたが。

 

母の「イヤだ」を日常的に聞いて育った私は

その言葉に傷つき、困り、弱り、悩んで

人にそのような想いをさせてはならない、と感じ

自ら「イヤだ」という自己主張を封印してきたのかもしれません。

 

或いは、自分が、「イヤだ」を頻発する母のようになってしまってはいけない!という

恐怖や嫌悪感があったのかもしれません。

 

 

  • ちゃんと正しく怒れない
  • 理不尽なことにも、無理なことにも、嫌なことにも、NOと言えない
  • 「正しく喧嘩する」ことも「怒る」ことと同じ理由でできない

 

これは、異邦人に多く共通する傾向です。

私の異邦人性は、あちこちに残っていて

一生消えることはないかもしれないと思っている、と

以前ここに書いたことがありますが

 

こと「正しく怒る」ことについては

ある出来事を経験して、自分でも驚愕するほど、自然に

いつの間にかできるようになっていることに氣づきました。

 

 

長くなりましたので、この続きは次の更新で(^^)/~~~

 

 

 

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