あら?私、今、怒ってた?

テーマ:

前回の記事のおしまいに

私が割合“正しく怒る”ことができたときのことを書きます

と予告してから

一月近くも経ってしまいましたあせる

 

その間に、今年の2月に続いて生涯二度目の声楽コンクールを受けて

今度は前回より一歩前進(*^-^*)3位に入賞したりして

伴奏を弾いてくれた新道美緒さんと♪

 

その後、バタバタバタバタ・・・・としておりまして

という言い訳をしたところで

本題に入ります。

 

私が、どうやら今さっき、自分は怒っていたらしいと氣づいたのは

今年2月の引っ越し騒動の最中でした。

 

こんな書き方になるのは

怒ることに自覚的じゃなかったからです。

怒りはあるけど、出そうか出すまいか?と考えたのでもなく

怒ってはいけない、取り乱してはいけない、と自制しつつ

暴発してしまったのとも違い

 

自然に、すんなりと、何にも考えずに怒っちゃったんですね。

 

相手は、エアコンの業者さんでした。

 

急遽決まった引っ越しは2月

1月中に引っ越し先である実家の片付けと

故障しているところの修理・修繕にてんてこ舞いでした。

 

数か所設置してある古ーいエアコンのうち1台が

明らかに故障しているか、間もなく故障するであろう異音を発していたので

まずそのメーカーの修理部に現調に来てもらったのです。

 

調査に来てくれた修理部の方は大変にいい方で

ちゃんと作動しているその他のエアコンも見てくれて

その場でできるメンテナンスは手間を惜しまず

無料でしてくれました。

 

ただ、肝心のエアコンからの異音は経年劣化によるもので

修理はできなくはないが、大変手間も料金もかかる

それであと何年持つかを考えると

修理ではなく、ここだけ新品と交換設置した方がいいと

意見をくれました。

 

20年以上経っているエアコンですから

私も納得して

「では一応、修理をする場合の見積もりと

新品を設置する場合の見積もり、両方出して

送って戴けますか?」とお願いしました。

 

「修理の見積もりはすぐ出ます。

帰って私が作って、三日後には届くようにします。

新品を設置する場合は、実は別会社になるんです。

でも同系列会社ですから、今日現調させて戴きましたので

報告書を送って、見積もりをこちらに送るように伝えます。

そちら方の見積もりは1週間ほどかかるかもしれません」

 

ということでした。

 

その通り、修理の見積もりはすぐに届きました。

夫とも相談の上、またいつお釈迦になってしまうかわからないものを修理するより

思い切って買い替えてしまった方がいいだろうということになり

新品設置の見積もりが届くのを待っていました。

 

ところが

待てど暮らせど見積もりは届きませんでした。

 

実家の片付け、その他の修理は着々と進んで

そろそろ住んでいたマンションの方の整理・荷造りの方に

かからなければ、となって

痺れを切らした私はその業者さんにこちらから電話をしました。

 

現調に来てくれた修理部からの報告と

見積もり作成の依頼はちゃんと行っていることがわかりました。

電話に出た男性は、「担当者は○○という者ですので

1時間後に電話をかけさせます」と言いました。

 

そして、その担当者という人から電話がかかってきたとき・・・・

私は怒ったのです(笑)

 

まず最初に、自分で電話をかけてきたのに

「どういったご用件でしょうか?」的な感じだったのです。

おいおい、担当者なんでしょ?と思いながらも

律儀にこれまでの経緯を説明をしました。

 

すると、なんと!

「では現調に伺いますので、来週以降のご都合のよい日時を教えてください」と!!

 

現調は済んでいるんです。

再び現調しなくて済むように報告が引き継がれていますよね?

見積もりはもうとっくに届いていなければならないはずです。

こちらは引っ越しの日が決まっていますから

逆算して無理のない時期に修理・見積もり・設置の手配を始めました。

見積もりが届かなければ検討することができない。

来週はもう引き払うマンションの方で荷造りにかからないとならないので

引っ越し先に出向いていられない。

そうならないように早めに手配をかけたんです。

設置が遅れれば、2月の一番寒い時期に

主人の寝室の暖房がないまま引っ越すことになってしまいます。

もう二日だけ待ちましょう。そちらで何とかしてください。

それがこちらができる最大の譲歩ですよ。

 

と・・・・かなりの剣幕だったかもしれません( ̄▽ ̄;)

 

相手は、これまた驚いたことに

優に1分くらい、電話口で“黙って”いました。

┐(´д`)┌ヤレヤレ

 

そののち

「・・・・では、見積もりが作成でき次第お送りします」とだけ言って

電話は切れました。

 

ご送付先のご住所を・・・・なんて言ったら

チコちゃんみたいに真っ赤になって

「ボーっと生きてんじゃねーよ!!むかっ」と

怒鳴っていたかもしれませんが

 

 

さすがにそれは訊かれませんでした(笑)

 

きっかり二日後に見積もりは届き(やればできるじゃねーか!)

検討の結果、結局その会社には

新しいエアコンの設置は依頼しなかったんですけれどもね(笑)

 

 

私が電話口で怒っていたとき

それほど早口ではなかったものの言葉は淀みなく出てきました。

 

声も上ずるでもなく

詰まるでも、震えるでもなく

ごく普通に出ていました。

 

そして、電話を持つ手も少しも震えておらず

片手は食材の整理をしながら

口だけ流ちょうに動かしていました。

 

「ったく、もう!むかっ」とスマホを切って独り言ちて

初めて自分が怒ったことに氣づきました。

 

それは、数年前に高校の職員室で

ある先生がやはり電話口で業者に怒っていたのを

憧憬の面持ちで眺めていた私自身であるとは

到底思えない出来事でした。

⇒『正しく怒れますか?

 

自分がたった今、電話を片手にキッチンの整理をしながら

業者に向かって放ったエネルギーは

怒り以外の何物でもない

それは、高橋先生おっしゃったところの

「正しく怒る」という行為に近かったのではないだろうか?

 

怒ったように見えていた過去の私は

実は正しく怒ってはいなかった。

取り乱し、防衛本能から相手を攻撃していただけなんだ、と

改めて思いました。

 

それは、私自身が苦しくツラい想いをする

怒りの暴発であったなぁ、と

 

正しく怒ることができるようになった今

電話を切ってからも変わらぬペースでキッチンをパタパタと走り

何の後悔も自責も感じていない自分を認めて

そんなふうに回想したのでした。

 

 

実は、怒ることに限らず

以前は到底できない!!と感じていたことを

今の私は平気で、しかも半ば無意識でやっちゃってたりします。

 

到底できない、どうしたらあんなふうにできるんだろう?と

他人の行為を羨望と驚異の眼差しで見ていた頃の私は

 

それを「習得する」には、どうすればいいのだろう?と

無意識に考えていたようです。

 

自分にはできない

だが、それをできる人もいる

ならば、それは稽古や勉強や練習や訓練や

そういう努力によって習得するものなんだろう、と

信じ込んでいたんですね。

 

ところが、実のところ

到底できなかったことを普通ーにするようになった今までに

なにか努力したかな?と自問すると

何ひとつ頑張った記憶はないのです。

 

それは、自然に起こったのです。

だから、習得するものではないようです。

 

無意識に自然にやっちゃって

その後で「あれ?私、前、これって絶対できなかったよな」と思う。

そんなことばかりです。

 

発声障害で、到底、普通に声が出せない、と感じていた頃

やはり、技術の習得で声を取り戻そうとしていました。

けれどその方法では声は戻って来ませんでした。

 

自然と、ある日気がついたら

そう言えば声のことを考えていないな

声に不自由していないな、と思ったのです。

 

心が変わると、感じ方が変わる

感じ方が変わると、想いが変わる

想いが変わると、行動・言動が変わる

そうすると、ごく当然のごとく

人生そのものの色合いがかなりはっきりと変わります。

 

私の心が変わったのは

高橋先生の治療を受けたからですが

その治療そのものは決して安楽なものではなかったと

今振り返って思います。

 

治療中、苦しみましたし

治療を始める前よりずっと悩みましたし

症状も一時、更に悪化したことさえありました。

時間もかかり、もう一生回復は無理なんじゃないか?と疑った時期もありました。

 

けれど、ひとたび変容した心は

ラクさを獲得し、また同じ苦しみには戻りません。

広がった心が、再び縮んでしまうことはないのです。

 

今、治療を受けていて苦しみの只中にある方へ

或いは、心理療法としてのカウンセリングを受けようとしている方へ

何らかの指標になれば、と思い

こんなお話をしてみました。

 

 

 

正しく怒れますか?

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ある方とお話していて

タイトルのような質問を受けました。

 

「みすぎさんは、怒れますか?」

 

すぐに意味が分かりました。

怒るべき時に、ちゃんと、しっかりと、正しく

怒ることができますか?という意味だと。

 

あー、怒れなかったんですよ、長年。

なぜか怒れなくて、怒るべきところだよな、とわかっていても

怒りはちゃんとお腹の中にあるんだけれども

潜ってしまっていて、怒れませんでしたね。

表に出すことができませんでした。

 

そんなお話をしているうちに

記憶の中から次々といろんなエピソードが引きずられて出てきました。

 

高橋先生の治療を受けていた頃、おそらく今から6-7年前でしょうか?

カウンセリングを受けはじめてからもう2年位経っていた頃だったと思います。

 

セッションの中で高橋先生に次のような出来事を

お話したことがありました。

 

「今日、勤めている高校の授業を終えて職員室に戻ってきたら

ある先生が電話口で、かなり激しく相手に怒っていました。

内容は、2年生の担任であるその先生が、修学旅行に関する

何かの業者さんを相手に(旅行代理店?)

依頼したはずの内容と違う旅程が組まれていたとか

時間的に無理な列車が手配されていたとか

詳しくはわかりませんが、ともかくとても怒っていたんです。

私は記入すべき書類があったのですが、完全に手が止まってしまい

その電話に全神経が行ってしまいました。

怒っていらっしゃった先生は

私とも普段から比較的仲の良い女性の先生で

趣味で楽器を演奏なさるので

たまに音楽室を使わせてください、と仰っていらっしゃるのです。

普段はごく普通の温厚な先生です。

その先生が激しく怒っている。

声を震わせるでもなく、身体がわなわなしているでもなく

興奮し過ぎて赤くなるでもなく、冷静過ぎでも嫌味でもなく

“それっておかしいですよね!ちゃんと私、伝えましたよね?”と

割合理路整然と先生という立場で自己主張していらして

私は、なんだか不思議な氣持ちになりました。

すごく羨ましいような、すごい、ちゃんと怒ってる!と驚嘆するような

尊敬したくなるような、変な気持ちになったんです。

電話が終わるまで手を止めて

ぼーっと怒っている先生の声を聴いていました。」

 

高橋先生は

「なるほどね、その先生、正しく怒っていたんだね」と。

 

「はぁ~、正しく怒る、か・・・・

なるほど!そうです、正しく怒っていたんです。

私は、正しく怒ったことがない。

その先生のようには到底できません。

正しく怒ることができないです・・・・」

 

そんなセッションがあったことを思い出しました。

 

確かに、傍から見れば

「みすぎが怒っている」と見えた言動を取っていたことも

あったかもしれません。

 

でも、私の中では、それは怒っているというより

取り乱していたんですね。

 

相手からあらぬ疑いを掛けられ

理不尽な文句を叩き付けられたときなど

もうどうしてよいかわからず

反応的に相手に噛みつくような言動になってしまっていました。

 

それは

【窮鼠猫を噛む】という表現がぴったりくるような反応でした。

 

追い詰められて、もう逃げられない、と覚ったとき

反射的に出てしまった反応です。

 

そんなことのあった後は、心臓はバクバクしますし

身体はわなわなと震えますし

声ももちろん上ずったり、詰まったり、震えたりしました。

イヤな汗をかいて、胃がせり上がるような氣分の悪さがあり

家に帰り着くと、激しい疲労感から

着替えることも顔を洗うこともできずに倒れ込んでいました。

 

そして、じわじわと自責感が湧いてきました。

「どうして私はあんなに興奮して感情的な言葉を相手にぶつけてしまったんだろう?」

「普通に話せば誤解は解けたかもしれないのに」

「それにしてもこんなに疲れてしまうなんて、まるで自分に対して暴力をふるった後のようだ」

 

自分のとった訳のわからない言動に、うろたえ、激しく後悔し

落ち込んでいました。

 

 

そうかと思うと

相手の理不尽な要求や言いがかりに対して

(そういう厭な目にあうことが過去にはしばしばありました)

怒っていいはずなのに、ヘラヘラと作り笑いを浮かべて

従ってしまうことも多くありました。

 

「私はまったくこんなことを望んでいないのに

むしろこんなことは絶対嫌なのに

なぜいい顔をしてへいこらと言いなりになってしまうんだろう?」

 

「傷ついているのに、どうして全然平気~みたいな顔をして

友達のふりを続けてしまうんだろう?」

 

不思議でなりませんでしたが

そんなことがあった後も、私の行動は修正されるどころか

加速していきました。

むしろ、無理難題を押し付けてきたり、高圧的だったり

理不尽なことを言う人に

自分から近づいて行ってしまう傾向さえありました。

 

 

 

また別の話ですが

夫と結婚して一緒に住み始めて間もなくのことです。

外出先から、在宅している夫に電話で

なにか頼みごとをしたのです。

明日の早朝出掛けるので、可燃ごみをまとめておいてくれない?とかなんとか・・・・。

 

そうしましたら夫が

「イヤだ」と即答しました。
(疲れて面倒臭かったのだと思います)

 

私は心底びっくり仰天してしまい、怒ることも困ることも

文句を言うことも忘れて、しばしその「イヤだ」という夫の言葉を

味わっていました。

 

氣づけば、私自身、大人になってから

「イヤだ」という言葉を発したことが

ただの一度もなかったのでした。

 

聞きなれない言葉が耳に飛び込んできて

フリーズしてしまいました。

 

そして、なんだかフフフ・・・・と笑いがこみ上げました。

「そうか、イヤなときは、イヤだ、って言っていいんだ」と

力が抜けました。

その時から、少なくとも夫に対しては

私もNOが言えるようになりました。

 

それまで、頼みごとをされたら

それが自分にとって到底不可能なことでも

どうやったらNOと言わずに要求に応えられるか?しか

選択肢を持っていなかったのでした。

 

 

その時

「大人が“イヤだ”っていう言葉を躊躇いなく発したのを

初めて聞いたわよ、びっくりよ」と夫に言ったのですが

それは私の大きな思い違いでした。

 

私の母は「イヤ」「イヤぁ~」「イヤだー!」と頻繁に言う人でした。

私が子どもの頃から、大人になってからも

母から「イヤだ」という言葉を聞かない日はなかったと言っても過言ではありません。

(今でも施設に訪ねて行くと、私の滞在時間40分位の間に優に10回は下らない頻度で言っています(笑))

 

正確にはその時、夫に

「“正常な”大人が“イヤだ”という言葉を躊躇いなく発するのを

初めて聞いた」と言うべきだったのでしょう。

 

この出来事は、母が境界知能であることを知る遥か以前のことですが

私の中では既に、母は“ごく普通の大人”とは見なせないという認識がはっきりと存在していたのでしょう。

もちろん、自覚的ではありませんでしたが。

 

母の「イヤだ」を日常的に聞いて育った私は

その言葉に傷つき、困り、弱り、悩んで

人にそのような想いをさせてはならない、と感じ

自ら「イヤだ」という自己主張を封印してきたのかもしれません。

 

或いは、自分が、「イヤだ」を頻発する母のようになってしまってはいけない!という

恐怖や嫌悪感があったのかもしれません。

 

 

  • ちゃんと正しく怒れない
  • 理不尽なことにも、無理なことにも、嫌なことにも、NOと言えない
  • 「正しく喧嘩する」ことも「怒る」ことと同じ理由でできない

 

これは、異邦人に多く共通する傾向です。

私の異邦人性は、あちこちに残っていて

一生消えることはないかもしれないと思っている、と

以前ここに書いたことがありますが

 

こと「正しく怒る」ことについては

ある出来事を経験して、自分でも驚愕するほど、自然に

いつの間にかできるようになっていることに氣づきました。

 

 

長くなりましたので、この続きは次の更新で(^^)/~~~

 

 

 

声からアプローチする♡心と身体を解放するヴォイス・レッスン

9月・10月の開催スケジュールは⇒コチラから

 

 

 

【声からアプローチする♡

心と身体を解放するヴォイス・レッスン】

 

「声」は誰もが日常的に使っているものであるにも関わらず

無頓着、無意識に出していることがほとんどです。

 

「声」はその人の本質を顕します。

 

なぜなら「声」は、存在表明にほかならないから。

 

そこに存在し、息をし、意思と感情と欲求を持ち

生きていることの自己表明なのです。

 

その「声」と向き合うことは

自分の心と、身体と、向き合い、知ろうとする試みです。

 

自分らしさを存分に表出して

毎日を生き生きと生きることを阻む

障壁となっているものが何なのか?を

 

生きている上で感じている

「窮屈さ」「不自由さ」の元になっている

心の奥に潜むものが何なのか?を

 

様々な手法を用いて体感する

 

ワークショップスタイル・小人数制のヴォイス・レッスンです。


 

◇9月のスケジュール◇

 

* 9月13日(木)    14:30~16:30  

  

* 9月24日(月・祝)   14:30~16:30

 

 

◇10月のスケジュール◇

 

* 10月13日(土)     14:30~16:30

   

* 10月23日(火)   14:30~16:30

      


         
※ 発声障害をお持ちの方の参加もどうぞご相談ください。

 

発声障害は、身体的病理の病巣・形跡が見当たらないのですが、 「病気」だとされています。

ところが、時によって難なく普通に声が出る場合もあります。

本当に脳機能的・神経系統の「病気」であるなら、正常に戻ったり、また症状がひどく出たり、という「ムラ」が生じるのはなぜなのか、論理的説明が難しい。

 

このレッスンでは、「症状がひどく出てしまう状態」と「なぜかふと普通に声が出る時の状態」を、少しずつ自分で「選べる」感覚を掴んでいこう、という内容を含んでいます。

 

私自身は、発声障害の症状を「出ない状態」に、常に「自分で」「選択できている」状態にあるだけであって、この「病気が治った」のだという感じはしていないです。

 

けれど、もう「声」のことで、悩むことはすっかりなくなりました。

お申込みはメールにて!
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★こんなお悩みをお持ちの方に
  最適のヴォイス・レッスンです★

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☑ 長時間話していると声が嗄れてくる

☑ 喋ることに消耗感がある



受講者様の声

【声からアプローチする心と身体を開放するヴォイス・レッスン】のレビュー

【声からアプローチする♡心と身体を開放するヴォイス・レッスン】感想を戴きました

個人レッスンを初めて受けた方の感想が来ました  

出してみるまで気づかない  

ヴォイス・レッスンを受けてくださった方の感想

ヴォイス・レッスン体験版のご感想  


*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

自分の中に潜み、無意識に抑え込んだり
出てくることを拒んでいる感情を

声を出すことによって、表出することが
できるようになります。

自分の抱え持っていた感情に
気付くことができます。

まずは、気づき、味わってみること♡

悲しみであろうと
怒りであろうと

そうすることで初めて
心身の解放が起こります。

それも、自動的に
自然に
自分を強制することなしに
愉しんで
です。

感情を受け容れ、味わうことで
人は初めてその奥にある「主観性」へ
至ることができます。

「主観性」から得られるものは
数知れません。

詳しくは当ブログの記事を
ご参照ください。

   ↓↓

主観性からの贈り物 』

続・主観性からの贈り物 』

なぜ主観性を見失うのか  』

主観性への怖れ  』

主観性への旅、最後の壁 』

主観性と客観性 』

★このレッスンを受けて得られること★

☆ 心と身体から、無駄に込めていた
  力が、ふっと抜けていきます

☆ 気持ちよく、安心して
  自分の存在をありのままに受け容れる
  ことができるようになります

☆ 精神の高揚を感じることができます

☆ 日ごろ感じている、そこはかとない
  不安や不自由さの正体が見えてきます

☆ 自己肯定感を得ることができます

 

☆ 瞑想法の基礎を体感できます

☆ レッスン後、日常に戻っていったとき
  暮らしやすさ、心地よさを維持できます

☆ 声に対するコンプレックスを
  克服することができます

☆ 発声法の基本が身につきます


なにごとも、体験してみないことには
効果も、実感も、価値も、知ることができません。

 

 

 

◇9月のスケジュール◇

 

* 9月13日(木)    14:30~16:30  

  

* 9月24日(月・祝)   14:30~16:30

 

 

◇10月のスケジュール◇

 

* 10月13日(土)     14:30~16:30

   

* 10月23日(火)   14:30~16:30

    

定員:3名

場所:東京都JR高円寺駅徒歩10分ほどのサロンにて

受講料:5,000円/2時間

 

 

 

※ 継続してお受けになることが
  安定した効果を生みますが
  単発での受講も可能です。

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いらしてくださいませ。

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メールにて承ります。
    ↓ ↓
silky.misughi@gmail.com

 

ご参加、お待ちしております(*^-^*)

更新が随分途絶えてしまいました。

3週間以上?(;^ω^)

 

通常営業(笑)しつつ

暮らしを愉しみつつ

日々の勉強をしつつ

というところまでは同じですけれど

 

そこにエキストラな勉強をする必要が入ってきて

そちらに時間を取られました。

 

取られた、と言いましても

奪われた感じではなく

やり始めたら楽しくて夢中になってしまったのです。

 

 

生まれて初めてTOEICを受けました。

 

私が今、やりたいと願っていることの条件として

【TOEICテストで○○〇点以上】という項目があって

必要に迫られての受験でした。

初めて条件を読んだ時は、正直「うわぁ~あせる」と思ったのです。

 

しかも、最近のTOEICは

従来のリスニングとリーディングテストの他に

もう一つ、スピーキングとライティングのテストが新設されていて

その両方とも受けなければならないし

ある水準をクリアしなければならないということなのでした。

 

 

時間的にあまり余裕がなくて

(TOEICの結果が送られてくるのに1ヶ月かかるということもあり)

急いで2種類のテストに申し込みをし

7月末と先週、2週連続で日曜日に受験しました。

 

ちょっと恥ずかしいので(*ノωノ)

まだここにはっきり書くのは躊躇われるのですが

私のやりたいことというのは、遥か彼方にあります。

早くても6年先。

でも、そこに行き着くためには

その前に果たさなければならない条件が

かなり大量に、厳しく決められています。

 

その前条件を果たすために

更にその前条件があります。

その前々条件の一つがTOEIC2種類のテストであった訳です。

 

やれやれ気が遠くなるほど厄介で面倒だわ・・・・

と、色々調べていくうちに判明した諸条件を前に

当初は溜息がもれました。

 

一つ一つやっていくしかないわ、と諦めがついて

ぼちぼち歩き始めてみたら

意外なことにすごく楽しくなってしまって

時間を忘れました。

 

TOEIC受験の為の勉強をやり始めると

忘れ切っていた英語の、読む、聴く、書く、話すという

基本的なスキルを思い出していく作業

或いは、全然身に付いていないことを知り学び覚える作業

これが、まるでゲームのように面白くて

いわゆるハマってしまった感じでした。

 

そうなってみると

自分は今、TOEICを受けるために勉強しているんだ

という動機をふと失念してしまうということが度々起こりました。

 

しかもテストの結果如何によっては

失格になってしまうことにチャレンジしようとしている

という考えも(プレッシャーと言いましょうか)

いっときどこか見えない所に隠れてしまって

ただ、面白いことに夢中になっていて

気がついたら時間が過ぎていた、みたいな感じでした。

 

受験してみた実感としては

あー!時間配分に失敗したー、とか

緊張して喋れるはずのことが喋れなかったなぁ、とか

色々残念なところもあるのですが

まぁやるだけやったし

それに何より「すごく楽しい時間を過ごせたんだから」

文句はないです(笑)

 

まだ結果はしばらく届かないのですが

どうなりますことやら (^◇^;)ドキドキ

 

そう、この「動機が見えなくなる」ということについて

前回の記事にも同じ文言を書いたのでした。

⇒『認めてもらう為に策を弄する

 

他者に、世間に、認めてもらいたい!

褒めてもらいたい!

という氣持ちが強すぎて

ただただそこに邁進するあまり

認めてくれる人がいても、褒めてもらっても

まったく目にも耳にも入らなくなる

という困ったスパイラルのお話でありました。

 

人は何かの行動を夢中でしていると

その行動を始めるに至った動機を

つい忘れてしまう傾向があるのでしょうか。

 

・・・・或いは、単に

私にその傾向が強いだけなのかもしれませんが(^▽^;)

 

 

しかし、今回の「動機が見えなくなる」は

苦しさのないものでした。

楽しく面白く充実した数週間でした。

 

 

私は歌を歌ってきた人間なので

過去の「コンサートを前に練習している自分」のことを

思い起こしました。

 

本番のステージが近づいてくるに従って

声は次第に出なくなっていきました。

歌えていた歌が、不自然なまでに歌えなくなっていきました。

 

その頃、私の心の中にあった想いは

「本番でみっともないことになったらどうしよう??」ということ

その一点でした。

 

毎日、ピアノの前に立って練習を始める時も

本番のステージでひどく声が出なくなって

ボロボロの演奏になる自分をありありと思い描いていました。

 

実際の日々の練習は

“そうならないための”練習であり

(私の意識上では「演奏会の為の練習」でしたが)

 

こう表現したい

こんなふうに響かせたい

という想いからの練習ではありませんでした。

(そんなこと、考えたこともありませんでした笑)

 

ですから必然的に、練習はキツい、ツラい、シンドいものでした。

 

言ってみれば、崖っぷちを歩いている恐怖に似たものです。

そして本番までの日々、崖っぷちをうまく

足を滑らせず、谷底に転落せず歩き切ったとして

その先にあるはずの景色は、やはり

「ステージ上で声を失い惨めに立ち尽くす自分」なのでした。

 

そこには喜びも、高揚も、愉しさも、面白さも、氣持ち良さも

ある筈はなく

ただ、今練習しなければ、もっとひどいことになる!という

恐怖と、自分を脅迫しているかのような厳しい義務感だけでした。

 

このような想いで、毎日毎日、長い時間を練習に費やしていれば

声が出なくなる病気にならない方が不思議だと

今は思います。

 

フォーカル・ジストニアという症名がありますが

これを発症する人のもののやり方・生き方には

多少なりとも私のそれと共通する部分があるのではないか?

そんな気がしています。

 

でも、こういうことが分かったのは

ジストニアの症状が寛解して声が戻ってきた頃より更にのち

私が日々の練習を「愉しい、気持ちいい!」

と思えるようになってからでした。

 

「しなければひどいことになるからする練習」と

「楽しくて気持ちがいいから、つい歌いたくなってする」練習とでは

行き着く先が天と地ほど違います。

 

そして、今、何かのステージがあって

その為に練習するときの私が味わっているのは

ふと「動機を忘れる」感覚です。

 

もちろん、どういうドレスを着るつもりで

どういうシチュエーションで

どういう観客を前にして歌うか

設定はちゃんと頭に入っていますが

 

練習しているその瞬間瞬間は

ただ、今、この音を、気持ちよく響かせたい

このフレーズを、こんなふうに表現してみたい

その想いがあるだけです。

 

それが楽しくて、気持ちよくて仕方がないから

うまくいかないなぁという時も

こうしてみようか、ああしてみようか、とワクワクした気持ちで

声を出すことを面白がっています。

 

問題点は、あまりに楽しくてやり過ぎること(笑)

大概、猫が頃合いを見計らって「もうやめといたらニャン」と

言いに来てくれます。

 

 

実を言いますと

今、(私にとっては)かなりの難曲を、きちんと、正確に

歌わなければならない本番を間近に控えているのですが(;´∀`)

 

練習や伴奏合わせは、「愉しい時間」以外の何物でもないのです。

 

万が一、本番の当日に、体調が悪かったり

予期せぬことが起こって

自分が思っている通りの演奏が適わなかったとしても

 

準備期間、すごく楽しくて、面白くて、気持ちがよくって

充実した日々を送れたんだから

文句はないわなぁε- (´ー`*)

そんなふうに言える自分がいるんじゃないかと予想しています。

 

あっとあせる それより・・・・

体調が良くて、氣分が乗って、練習した通りバッチリ・・・・

いえ、練習以上に素晴らしく歌えちゃったわ、と言っている自分の

イメージの方に自然と心が引かれるのです ( *´艸`)

 

 

 

認めてもらう為に策を弄する

テーマ:

お母さんに受け容れてもらいたい

ありのままの自分を

 

お母さんにわかってもらいたい

頑張っている自分を

 

お母さんに認めてもらいたい

自分の努力を

 

これって、おそらくどんな人でも普通にあった気持ちだと思います。

 

かなり前のことですが、高倉健さんの

『あなたに褒められたくて』というエッセイが出版されました。

この“あなた”というのは、健さんのお母様のことだそうです。

その広告を見て、そうだよなー、誰でもそうなんだろうな、と思ったことを憶えています。

 

幼い子どもの頃は、みんな

「お母さん、見て見て、ほら、できるようになったよー」とか

「ママー、これ私が作ったの、見てー」というように

自分の能力を開発していったのだと思います。

 

そして

「あー、ほんとだ、すごいねー」とか

「まぁ、よく出来たのねー」とか

或いは、ただ心からの笑顔を返してもらって

お母さんが一緒に喜んでくれると

 

子どもは

  • 自らの存在を肯定すること
  • 満足すること
  • 頑張ることの嬉しさ

を知り覚え、発達・上達していくのだと思うのです。

 

被虐者には、この経験がありません。

お母さんに「子の心を自分のことのように感じる能力」が欠けているからです。

 

暴力で痛めつけなかったとしても

暴言で罵倒しなかったとしても

食べ物、着る物を与えていたとしても

子どもに共感し、自分のことのように感じる能力が母親になければ

そこに日々生じているのものは「虐待」なのだ、ということを

このブログに繰り返し書いてきました。

 

子どもが成長し、その翼を広げていこうとするとき

母親がそれに無関心であったり

むしろ不機嫌になって子を凹ませる態度で応えたとしたら

 

子は

  • 自らの存在を否定しながら
  • 満足という状態を知りえないまま
  • 喜びや愉しさの伴わない頑張りを続ける

ことになります。

 

その「義務的な頑張り行動」の根っこにあるのは

わかってもらいたい!!

という強い強い欲求です。

 

認めてもらいたい!

という氣持ちです。

 

いわゆる「承認欲求」と言われるこの根源的な欲求は

先ほども書きましたが、誰にでもあるものです。

 

ただ、被虐サバイバー=異邦人にとって

人から認めてもらいたい、という氣持ちは

「飢え」や「渇き」にも似た「飢餓感」であり

 

溺れている人が「空気を!」と感じる時にも匹敵するほど切迫したものです。

 

 

 

数年前までの私にとって

わかってもらいたい、認めてもらいたい、は

そのまま「生きていくこと」とほぼ同義語でした。

 

「生きる」とは

わかってもらう為の行動の連続を意味していましたし

日々、毎刻、「認めてもらう為にはどうればいいのか?」を考えることに

殆どすべての労力と知恵を注ぎ込んできたように思います。

 

そうです、私はわかってもらう為、認めてもらう為に

【策を弄して】生きてきたのです。

 

【策を弄する】を辞書で引きますと

必要以上にはかりごとを用いる」とあります。(下線筆者)

 

更に【はかりごと】を辞書で引くと

「物事がうまくゆくように、前もって考えた手段・方法・計画」のことだそうです。

 

まさに必要のないほどにあれやこれやと前もって

手段・方法・計画を考え、奔走してきたなぁという自覚があります。

 

今振り返れば、策を弄さず生きることは、過去の私には無理なことでした。

ありのままの自分で、自然に生きることへの恐怖は

「死」そのものより遥かに強烈で

とても実行できなかったでしょうし

 

そもそも、ありのままの自分や

自然に生きるというのがどういうことなのかを

知らなかったのでした。

 

だから仕方のないことであったとは思っていますが

日々、自分の持てるすべてを尽くして策を弄して生きてきたお陰で

もちろんよかったこと、得られたものもあったには違いありませんが

同時に、不毛ですごく困ったことになっていったんだなぁ、と

今は生き方全体の構図を見渡すことができます。

 

どういうことかと言うと

そもそもの動機が見えなくなるのです。

或いは、目標を達成しても、それに氣づかないのです。

 

このことについては、実は3年前にも一度記事にしています。

⇒『集中度の高さ

 

あまりに策を弄することに集中していると

視野が狭くなる、というか、自分が「やろう」と意図すること以外は

目に入らなくなるのです。

 

すべては

受け容れてもらいたくて

認めてもらいたくて

やり始めたことなのに

 

受け容れられても

認められても

そんなことはもう一切目に入らない

アウトオブ眼中

ひたすら、認められるための行動をとり続けてしまう。

 

これはゴールのないデスレースです。

 

そして残るのは、「報われない感」です。

 

本当はとっくに報われている

もうゴールしていたのに、そこは見ない、見えない

ひたすら突っ走り続ける

 

だから、私本人だけが「報われない」と嘆いていたようです。

 

まわりから見ると

  • 異様な欲張り
  • 自意識過剰
  • 独りよがり
  • 自分勝手
  • 自己中心的
  • 目立ちたがり
  • 自己顕示欲の塊
  • 虚栄心が強い
  • 頑固
  • 猜疑心が強い

というふうに見えていたと思います。

 

実際、そうとしか思えない行動をとっていたのですから

無理からぬことです。

 

 

 

お恥ずかしい話しですが

心が回復した今でも

この「異邦人性」は少なからず私の中に残っています。

 

生き方のクセとでも言いましょうか。

はたまた、いつまでも満たされることがないほどに

「認めてもらいたい」の飢餓感が骨身に沁みこんでしまっているのでしょうか。

 

頭ではわかっている

もう既に充分に受け容れられているし

認められているんです。

 

日々たくさんのクライアントさんにお話を聴かせてもらっており

このブログも毎日平均170位、多い日は900超のアクセスがあります。
(トップブロガーさんのアクセス数に比べたら微々たるものですが…)

 

私の方からは存じ上げない方から、「ブログを読んでいます」

「とてもよくわかり、役に立ちました」と

支援者のためのセミナーや事例検討会でお声をかけて戴くことも

しばしばあります。

 

師匠の高橋先生に「あなたは本当に随分と上達してきたね」とSVの度に褒めて戴きますし

新宿ボイスクリニック渡嘉敷先生から患者様を私のカウンセリングへ紹介して戴いていてもいます。

 

何年も治療に通われて改善が見られなかった痙攣性発声障害の方が、みすぎのカウンセリングを受け始めて3か月でよくなったと言って再度渡嘉敷先生にご報告にいらしたとのことで

「みすぎさん、スゴイですね!何をしているんですか?(笑) また話を聴かせてください」なんて言ってもらって、臨床心理士の新明先生とも引き合わせて下さり、先月お会いしたばかりなのです。

 

 

それでも、私はまだ「認めてもらう為に、何をしようか?」と

無意識にですが、いつもそんなふうに考えを巡らせているんようなんですね。

 

そして、また策を弄してしまっては

その直後に

「あ!また要らないことをしてしまった」と氣づくのです。

 

正直、その度に凹みます。

┐(´д`)┌ヤレヤレ またやらかしてしまったわい、と思います。

 

そうして高橋先生のところにSVに行っては

(本来スーパービジョンはカウンセラーとしての指導を受ける場ですが)

「自分の認めてもらいたい欲、受け容れてもらいたい欲の強さに

辟易としてます」とこれまで幾度となく告白、懺悔をしてきました。

 

「それはあなたが長年欲しくて得られなかったものでしょう」

「ふむふむ、今はそれがよく見えてるからいいね」

と相手をしてくださっていた先生ですが・・・・

 

ある日、私にアドバイスをくださったのです。

それを今日は、このブログの読者の皆さんと共有したいと思います。

 

高橋先生が何かアドバイスを下さる機会は

クライアントとしてカウンセリングを受けていた時代から考えてみても

もの凄ーーーーく稀少な体験ですので

大変に有り難く、今の私の宝物です。

その宝物のお裾分けです(*^^*)

 

受け容れてもらいたい、認めてもらいたい、と感じたら

その氣持ちを大切に、ただ抱きしめること

その為に起こす行動は控えること(=何もしないこと)

その為に“行動すること”がメインになったら

既に受け容れられていること、認められていることが見えなくなるからね

 

本当に、この通りだと思います。

 

それ以来、事ある毎に私は心の中で

「私は、認めてもらいたい。

私は、受け容れてもらいたい」と

念仏のように唱えては

“何もせずただそこにじっと居るだけ”ということをしています。

 

関連記事⇒『ただそこにいる人になる

 

 

 

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