10月2日(月)から5日(木)の4日間

皇居勤労奉仕団に参加し、皇居内の清掃などの作業を

してきました。

 

 

恥ずかしながら、私は今回、生まれて初めて皇居内に入りました。

これまで皇室行事など、関心を持ってニュースを観ることはありましたが

一般参賀や皇居内参観など、誰でも入ることができる

オープンな場所であるにも関わらず

出掛けて行こうと思ったことがなかったのです。

 

今回、ご縁がありまして、奉仕団参加にお声をかけて戴き

なぜか「参加しよう!」と即決しました。

 

参加してみて

得難い経験をさせて戴き本当によかったと感じましたし

奉仕活動を通してさまざまな氣づきがあり

また、心の変化も起こりました。

 

今日は、そんなことをぽつぽつと書いてみたいと思います。

 

 

皇居は東京ディズニーランドの3倍の広さを持つ

広大な場所です。

身分確認を済ませて、皇居内に入ると

そこは東京の中心にいることをふと失念するほどの静けさと

独特の清浄な氣に満ちていました。

 

そこにお務めの方々は宮内庁の職員の方から

皇宮警察の方も、ありとあらゆる方が親切でにこやかで

優しく、お人柄がよい、という印象を持ちました。

 

皇居内は、間違いなく日本国であり

日本の中心であると言ってもいいのでしょうけれど

そこは私たちが普段生活を送る場としての日本とは

空気感から秩序まで、まるで違う意味合いを帯びているかのようでした。

 

のちに、天皇、皇后両陛下の御会釈に際して

そういうことがどうして起こっているのかが

すっと腑に落ちることになりました。

 

ここには、天皇陛下、皇后陛下はじめ

お勤めされているあらゆる方々が

我欲から解き放たれたところに生きていらして

命がその生き方を悦んでいる

その悦びを糧として、また命が育まれている

そういう循環が起こっているように感じられました。

 

言葉はあまり上品ではありませんが

その循環の「出処」は間違いなく

天皇陛下と皇后陛下であられます。

 

両陛下はご自身も生身の人間として生きておられることに

私たちとの違いはありませんが(恐らくは・・・・汗

私たち日本国民のために、日々の生活を営まれている。

 

私たちには仕事の時間があり、プライベートがあるけれど

両陛下にはお暮らしそのものすべてがご公務です。

そして、絶えず、ひとときも休むことなく、私たちの健やかなことと

幸多くあることを願い、祈っておられる。

 

日本の皇室の祖先を遡れば

天照大神に辿り着く訳ですが

まさに、天皇陛下、皇后陛下は

神様にもっとも近い人間

或いは人間の姿かたちを持たれた神様、なのだと感じました。

 

そこに日々お仕えしている人々の精神に浄化が起こり

穏やかさと幸福感で満たされるのは

想像し難いことではありません。

 

そこに一歩踏み入れた私たちの精神もやはり

4日間というごく限られた期間でしたが

浄化が起こったのだと思います。

 

 

 

さて、奉仕活動についてですが

まずは作業を指導して下さる担当の方に

皇居内の説明を受けながら見学をするところから始まりました。

広大な皇居内を歩くだけで、4日間毎日

普通に学校時代の遠足の倍以上は歩いた感じがします(笑)

 

一般参観の方が立ち入れない皇居内の奥のあちらこちらに

奉仕団ならでは見学が許されるというのが大きな特典です!

それぞれに深く感銘を受けました。

どこにいても、歴史と、皇室とその地に携わった人々の御霊が

脈々と受け継がれているのを肌で感じました。

 

 

実働時間は思ったほど長くなく

午前と午後合わせても長くて3時間ほど

それ以外の時間はゆったりと流れます。

 

作業場所と内容は日によって変わり

除草作業や、落ち葉掃き、清掃などを

江戸城時代には天守閣が建っていた天守台や

皇居内水田の近くであったり

また一般参賀がおこなわれるテレビ放送で見慣れた

東宮東庭広場であったりしました。

 

 

 

初日の作業を始めたとき

私にはなぜか焦りが湧きました。

 

「天守台の除草作業をお願いします」ということになって

芝以外の草むしりをする訳ですが

とにかく、広い!

全体を見渡すと既にきれいに整えられているようなのですが

一ヶ所に目を移すと、ここにもあちらにも抜くべき草が伸びています。

 

「これを与えられた時間内にキレイに仕上げることができるのだろうか?」

 

作業し始めると、私が属している奉仕団のメンバーも

一緒に作業に携わっている他の奉仕団の方々も

とにかく黙々と、一心に草を刈っていきます。

 

私もいつしか、目の前の作業に没頭し始めるのですが

氣づくと

「自分は他の人と同じように効率的に作業をこなせているだろうか?」

「遅れをとっているのではないか?」

「丁寧過ぎて手間取るのも、雑過ぎるのもよくないだろう」

「この程度でいいのか?」

「もっと急がなければいけないのでは?」・・・・

こんなマインドトークが始まっているのでした。

 

そこで氣づいたのは

 

私は、

作業(仕事)というものは

  • 一人で
  • 完璧に

こなすべきものだ

 

と、無意識に思い込んでいるんだな、ということです。

 

いつか記事にしましたが、これには私の異邦人性が

大きく関わっていると感じます。

⇒『異邦人の目に映るこの世は

その記事で述べた通り、異邦人が感じている

この世=社会=他者と、自分との関係性は

独特なスタイルを持っているのです。

 

転記しますと

  • 社会(他者)は自分に対して何かしらの成果、効果、役割を迫ってくる存在である
  • それに十分に応えられない場合、自分は社会から見捨てられる
  • 或いは、“吊し上げ”に合う
  • 他者の集合体である社会は、自分と相対するものとして、自分の外側に存在するものである
  • 自分は社会の外側に孤立して存在し、社会からの(或いは社会の代表としての他者からの)要求・命令に応えることが唯一、この社会と繋がっていられる方法である
  • それ故、自分が社会の構成メンバーの一員であるという意識は極端に薄い
  • 他者からのサポートを得ることは負い目を作る、許されないことである
  • 「仲間意識、持ちつ持たれつ、甘えたり頼ったり」などは命取りである

 

私はこうして、過去の自分が見ていた世界を

言葉にすることが既にできるようになっているので

自分の中にその傾向を見つける度に

ハッと氣づくことになります。

 

奉仕団は、団として作業をします。

私はその団の一員であり、構成メンバーの一人です。

 

この感覚は数年前まで私には馴染みのないものでした。

異邦人にとっての集団・社会という概念は

すなわち自分以外のどこかにあって

自分と相対するところに位置するるものだったからです。

その領域と、自分とが交わることはなかったのです。

 

学校に通っていた学生時代も

仕事に就いて職場を経験した時期も

私はどこにいても「浮いた」存在だった訳です。

一員であると認識されるべき人間が

その属している集団を自分と相対する存在だと感じているのですから

それは浮いてしまいますよね、当然ながら・・・・。

 

それはさておき、今の私は一応どこに参加しても

自分をその構成員の一人と感じることができるようになっています。

でも、やはり長年の習慣は時折顔を出すのです。

私がその集団の構成員の一人として許されるためには

役割を果たし、十分と認められる成果・結果を

出さなければならないのだ

という義務感と焦りです。

 

広大な皇居内では、個人でこなせる仕事は

全体からみれば微々たるものです。

だからこそ、人手が必要なのです。

私がやりきれない作業は、仲間がしてくれます。

 

私が属する奉仕団以外にも

同じ日程で複数の団体が作業をしています。

自分たちがやりきれない作業は、他の奉仕団が

 

今回の日程でやりきれなかった作業は

また別の日程で後日作業に入る奉仕団に引き継がれ

それが続いていきます。

 

一人で、完璧に、なんて考えは、初めからおかしいんです(笑)

 

最初から最後まで

仲間との協調と信頼が前提となって

この奉仕は成り立っているのです。

 

実は、これがこの社会のモデルなんですね。

 

そして、「休憩してくださ~い」のお声がかかり

ふと氣づいて見渡せば、その場所は作業を始めたときとは

見違えるほどきれいに除草されていました。

 

こんなに広い場所

こんなにたくさん生えている草

とてもできないんじゃないか?という氣がした

作業前の私の心持ちは

 

その後の作業を進めていくごとに少しずつ変化し

今、自分の目の前にあることに

心を込めて、できる限り精一杯務める、ただその一点に

氣持ちの良さを感じていくようになりました。

 

そこには、成果や結果、それをどう評価されるか?

限られた時間内にどこまですれば許されるか?

などという観点は消失し

ただただ「やること」そのものが愉しい、嬉しいという氣持ちが

あるばかりでした。

 

そして、一緒に作業をしている仲間を信頼する氣持ち

自分がやりきれなくても

きっと誰かがここをきれいにしてくれるという安心感

任せたよ、任せろよ、という連帯感

 

そういった安心感、連帯感は

被虐待者としての過去の私にとっては

決して自分に許してはならない禁断の領域にあるものでした。

なにしろ「仲間意識、持ちつ持たれつ、甘えたり頼ったり」などは命取りだったのですから。

 

けれど今の私には、安心感も連帯感もある(*^^*)

信頼感、仲間意識を感じて嬉しく、満足し

そしてまた自分の目の前の作業に没頭する

その繰り返しでした。

 

今回皇居勤労奉仕団として一緒に参加した仲間たち

 

4日間の作業を終えて

自宅で身体を休めている時・・・・

 

この感覚は、たった一人でやるしかない勉強などについても

同じことが応用できるのではないか、と思われてきました。

 

実は現在の私が目標としていることは

結構遠大なもので(;´∀`)

そこへ到達したいと強く望んでいるのですが

 

望めば望むほど、目標の大きさ、課題の困難さ

かかる時間の長さ、するべき勉強の多さ

憶え習得していくことの膨大さばかりに目がいき

氣が取られてしまうことがあります。

 

すると、これってほぼ現実不可能なんじゃないか?

と思われてくるのです。

 

こんな遅々としたペースでは間に合わないんじゃないか?

勉強に時間は割いているけれど、頭に入っているのか?

憶えて使いこなせるのには、いったいどれだけ時間がかかるのか?

生きている間に間に合うのか?

こんなことでは・・・・

 

それは、結果と成果と評価だけに意識の重点が置かれ

今、ここ、目の前にある悦びを感じられなくなっているときなのです。

 

私が目指していることは、誰からやれと命令されたことでもなく

それをせねば生きていかれないという種類のものでもなく

ただ、自分の興味関心がそちらへと向いて仕方がない

情熱が湧いて押し止めることのできないから

志しているものです。

 

だから、勉強自体は無性に愉しい音譜

愉しいなら問題ないじゃないか、と言われればその通り!

 

でも、やはり時どき(しばしば)

結果、成果、評価に捕われてしまう時があって

そうすると目の前のやりたい筈のことの手が止まるんです。

その愉しみが感じられず、怖れと不安と焦りに捕まってしまうのです。

 

それは、奉仕作業を始めるときの不安とよく似ていました。

 

こんな広大な土地の除草作業を時間内に、

完璧に、この私にはできる訳ないんじゃない??

 

・・・・

そう、完璧になんて、できる訳がないんです。

私一人でやり切るなんて、とてもできないかもしれない。

もうそう居直る。

 

そんなことに拘って固まっているより、やって愉しいことを

ただ目の前にあることに没頭し満足することを

日々続けていられること

これ以上に幸せな生き方はない。

 

そうして感謝しつつ、面白がりつつ

愉しみを謳歌しながらコツコツ作業を続けて生きていると

いつか誰かの「はい、休憩してくださ~い」という声が聞こえて

ふと周りを見渡してみることになる

そこには見違えるように整え清め拓かれた広大な土地が

広がっているのかもしれないなキラキラ

 

そんな空想をして、ニヤニヤして

また目の前の勉強に向かう日々です。

 
 

 

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