長いこと更新せずすみませんでした。
先日ようやく卒業試験が終わり、区切りが付きました
桐朋最後の試験は、調布のくすのきホール。
高校の時も同じホールでの卒業試験でしたが、あれからもう4年。
本当にあっという間の学生生活でした。
大学から新しい先生に変わったのもあって、無我夢中で大学2年までが終わり、大学3年は久々に海外の講習会へ行ったり、コンクル前に手を痛めて棄権したり…大学4年は卒業後のことを考えて活動し始めたりして、この1月にも数々の転機がありました。(また正式に決まったら報告します。)
卒業試験の話に戻りますが、今回は曲目にだいぶ迷ったんです。
一応指定がバイオリンコンチェルトかそれに準ずるグランドピース
ということなので、コンチェルトで考えていたのですが
のめり込めるくらい好きな曲となると悩むところなのです。
試験で毎年弾かれる主流かな?と思うコンチェルトは
チャイコフスキー
プロコフィエフ
ショスタコ
シベリウス
バルトーク
ブラームス
あたりだと思います。 もちろん上記以外にも色々弾かれます
迷った末に消去法でプロコの1番にして、さらい始めましたが
何かしっくりこない。
プロコは好きだし、2番のコンチェルトも好んで弾いたけど、
なぜか愛着が出てこない・・・
レッスンに持っていったら遂に先生にも、
「消去法なんかじゃなくて本当に好きな曲を選んだほうがいいわよ、もう一回考え直したら」
と言われ悩んだ末、好きだけど独特の世界すぎて手を出しにくかった
グラズノフのコンチェルトにしました。
卒業試験にしては地味目な曲かな?とも思いましたが
最後なんだし好きな曲を弾いたもの勝ちだぁー!と取り組んでいくうちに
どっぷりハマってしまいました
グラズノフの楽章構成は色んな解釈があって
単一楽章というのがあれば5楽章まで区切れてるのもあって
なんだかややこしや。 とりあえず私は間をとって3楽章って考えてます。
グラズノフはロシアの音楽史の中で、教育者としても作曲家としてもかなりの名声があったにも関わらず、少なくとも日本では後年に出てきたショスタコやプロコやのがダントツに知られています。
お二方の関連文献はわりとあるのですが、グラズノフは伝記もなく
あまりその人の詳細を知る文献がなかったのですが
あんな名曲を書いた作曲家はどうゆう心情だったのかはとても気になるところ。
そして遂にグラズノフのついて書かれた本を発見したのです。
これ↓
この本はⅠ.Ⅱ巻になっていて、Ⅱ巻の数ページにわたってグラズノフのことが書かれています。
前に読んだのでなんとなくしか覚えていませんが…
グラズノフはこわーい顔に見えますが人格者で
彼がペテルブルグ音楽院の教授(後に院長)として務めていたとき
学費が払えない生徒たちのために身を粉にしてお金を集めたり
生徒一人一人のことをちゃんと覚えていて、金銭面以外でも援助していたみたいです。
グラズノフの援助によってショスタコも学校に通えた1人だったんですね。
すさまじく忙しい生活の中で、1904年にバイオリン協奏曲が作曲されたのですが、翌年1905年に大規模なデモが勃発し(血の日曜日事件)学校内でも学生の革命運動が起こったり、その三年後は恩師であったリムスキー・コルサコフの死など不幸が重なります。
その後もグラズノフはロシアロマン派的な音楽を貫いていたのですが
プロコやストラヴィんスキーといった新しい音楽のスタイルを
受け付けることはなく、後年は時代の波に乗れなかったようです。
それもあってかグラズノフの死後も、ロシア音楽の改革者としては
名を残せなかったのかな?と思います。
けど、最後まで伝統を守って沢山の名曲を残しているんだから
もっともっと知名度があって良いと思いますが。
まだまだグラちゃん(愛称)の話題は尽きないのですが
戻れなくなりそうなのでこの辺にしときます。
そして本番二週間前から嘱託のピアニストとの合わせや友達との弾き合いが始まりました。
緊張してものびのび弾けるように、この曲はこんな楽しいとこもあるよーと
演奏で表したいなと思ってました。そして当日。
楽屋でも舞台袖でも緊張はしたままでしたが、本番は何だか吹っ切れて
ちょっとのミスくらいいいやぁ!と大船に乗った感じで弾ききりました
本当に楽しかったので、本番の興奮がなかなか覚めなくて結局その日寝れなかったんです。
次の日は友達と東京トリックアート迷宮館に行ってきました。
ここ、前から行ってみたかったんです。 同じ建物内にはこーんなバッグが。
いざ迷宮館に入ると、人間の目の錯覚を利用した面白い絵がたくさんっ!
最後まで堪能してきました。
そしてあさっては群馬県の小学校で演奏してきます。
今って相当雪積もってるんじゃないかな??また報告早めにアップします。