庭を掃き清める箒を使う音。
朝餉の支度をする廚の音。
使用人たちの控えめに遣り取りする声。
小さく聞こえてくる赤ん坊のぐずる声……
ああ…そうだった。
昨日から都に…ヨンの家に来たんだったな——
チェ家で迎えた朝。
慣れねぇ上等の布団で、ぐっすり眠れたんだかどうだか……若干の寝覚めの悪さに、俺は目を開けはしたが、寝転がったままぼんやりしていた。
チェ家は、高麗でも指折りの家柄だって、聞いちゃいたけど……
どっしり構えた…代々続いてるって感じの、立派な屋敷だ。
たぶん、名家にしては使用人の数は多くないんだろうけど、皆んな気のいい働き者ばかりらしい。
何より、主人夫妻によく尽くしてるってのが、来たばかりの俺にだってわかるしな。
昨日は偶然、ウンスを助ける形になって——その上、ヨンの昔馴染みだと知られて、下へも置かない扱いを受けている俺……
ギチョンさんは、「奥様の恩人だ。本当に助かった。有り難い……」と、拝む勢いだし、スンオクさんは、顔を合わすたびに、不便は無いかと聞いてくれるし、ソニさんも、「旦那様と奥様の大切な客人」だって、事細かに世話を焼いてくれる。
安州の隠れ里で、ひとり静かに暮らしてる俺としては……こそばゆいったらねぇんだが。
まぁ、有り難い話だ。
マメに送られてくるドンジュからの手紙で、ヨンやウンス、それからチェ家の人たちに、どんだけ良くしてもらってるか……知ってはいたけどよ。
本当に本当なんだって、よく分かった。
思い切って来て良かったな——
「……ヒジェさん。起きてらっしゃいますか?」
部屋の外から、ソニさんの遠慮がちな声がした。
いい具合に目が覚めた俺は、身体を起こして返事を返す。
「ああ、ちょうど起きたとこだ。おはよう、ソニさん」
「おはようございます。朝ごはん、いつでも食べていただけますので、いい時にいらしてくださいね」
「あ、じゃあ今から……腹は減ってる」
「まぁ。ふふ、承知しました」
ソニさんが、顔を洗う用に水桶を持って来てくれて(井戸端でいいのによ…)、有り難く使わせてもらい、ウンスの具合を尋ねると、
「はい。今朝はすっかりお元気なご様子で、朝もしっかり召し上がられました。今はタム坊ちゃまにお乳を……終わったら行くから、と、居間でお待ちいただくよう伺っております。お食事をお運びしますので、少しお待ちください」
「ありがとう。世話かけるな。ヨンはもう行ったのか?」
「はい。今日は早くにお出かけになりました」
居間に案内してもらって、何となく部屋を眺め歩いていた俺は、棚の上の不思議な置物に目がいった。
生けられた花の隣りに、四角くて小汚い…見た事もない……固い石?みてぇな——
何だ、こりゃ?
俺の朝メシを持って来てくれたソニさんに、尋ねてみると、
「ああ、それは奥様の…ご両親様の思い出のお品だそうです。いつも目につく所に置いておきたい、とおっしゃって」
「へぇ、医仙の…親御さんのなぁ」
「はい。奥様はいつも明るくてお優しくて……でも、ご両親様は天界にいらっしゃいますから。お淋しい気持ちもお有りだと思うんです……」
「そうだな……」
俺もドンジュも…ヨンもだ、親とは死に別れてるから、会えねぇのは当たり前だけど。
ウンスは俺たちとは違う。
天界(向こう)へ帰れば会えるのに……
帰れねぇ…いや、帰らねぇんだからな、ウンスは。
そりゃあ、淋しいよな。
ウンスも、親御さんも。
可愛い孫の顔だって、見せてやりてぇだろうにな……
「——おはよう、ヒジェさん!よく眠れた?ご飯は食べた?」
昨日の折れちまいそうな様子から一転、ウンスがやたら元気そうな様子で、タムを抱いて居間へやって来た。
「おぅ。上等の布団で寝かせてもらったからな。飯も腹一杯食わせてもらったぜ」
「ふふ。ベッドとお布団にはこだわってるの。人生の3分の1は寝てるんだから、快適でないとね。スンオクとソニのご飯、美味しいでしょ?ウチの自慢よ」
「ああ美味かった。確かに自慢だな」
「まぁ、奥様もヒジェさんも…恥ずかしいです……」
言われたソニさんは、首と、前に出した両手を激しく左右に振って、謙遜しまくりだ。
「ねぇ、ヒジェさん。ヨンね、今日は出仕したけど、明日は休みをもらうって言ってたから、皆んなで都見物に行きましょ。ね!」
「ね、て、オイ……ダメだダメだ。昨日倒れたのはどこの誰だよ?ヨンに怒られっぞ」
「ヨンも一緒だから大丈夫〜」
「は…いいんだか悪ぃんだか。それより、ドンジュを訪ねてぇんだけどよ。どうすりゃ会えるかな?あいつ、王宮だろ?」
「ヒジェさんが来たって、昨夜のうちに伝わってるはずよ。きっとドンジュから訪ねて来るわ……あ!そしたら、皆んなでマンボ姐さんのお店に行って、ヒジェさんの歓迎会をやりましょ!ヒジェさんも姐さん達に会うの、久しぶりでしょう?」
「そりゃ、まぁ……10年以上は」
「あら、ご無沙汰しすぎじゃない。それは大変よ」
「…大変?」
「決まり!タムも連れて行くから、ソニも一緒に来てね」
「まぁ私まで……恐れ入ります」
うふふ、楽しみだわ〜と、嬉しそうな医仙……
本当に大丈夫なのか?と、ソニさんを見ると、目が合ったソニさんは、ちょっと眉根を下げて笑って、小さく頷いていた。